【臥薪嘗胆・十八史略】屈辱や痛苦に耐えうる者だけが使う四字熟語

学び

臥薪嘗胆

難しい漢字ですね。

「がしんしょうたん」と読みます。

聞いたことがありますか。

文字を読めば意味だけはなんとかわかります。

薪の上に寝て肝をなめるというのが元々の意味です。

薪の上に寝ると痛い。

肝は苦いものです。

なめておいしいものではありません。

つまりどういうことか。

悔しいことを絶対に忘れないため、つらいことをして再起を願う行動なのです。

現在では「名誉挽回」や「汚名返上」といった意味に使われることも多いようです。

苦しさに耐え忍ぶという意味では同じかもしれません。

しかし実際の話はもっと激烈です。

覚えておいてもけっして無駄にはなりません。

四字熟語の中でもよく使う言葉です。

簡単に内容を整理しておきましょう。

春秋時代において敵対関係にあった呉と越の話です。

この2つの国の名前が入った熟語もありますね。

呉越同舟がそれです。

呉王の闔呂(こうりょ)は越王の勾践(こうせん)に討たれてしまいます。

闔呂の息子夫差(ふさ)は、父の仇を討つべく固い薪の上で寝る日を繰り返すことで勾践への復讐心を燃やします。

そしてついに3年後に勾践を破るのです。

勾践は夫差の馬小屋の番人にされます。

越に帰国後、苦い肝を嘗めて呉への復讐心を忘れないようにしたのです。

勾践は越の兵を集め、ついに20年後に呉の夫差に対して大勝をおさめました。

書き下し文

伍員を挙げて国事を謀る。

員、字は子胥、楚人伍奢の子なり。

奢、誅せられて呉に奔り、呉の兵を以ゐて郢に入る。

呉、越を伐つ。

闔廬傷つきて死す。

子夫差立つ。

子胥復た之に事ふ。

夫差讎(あだ)を復(ふく)せんと志す。

朝夕薪の中に臥し、出入するに人をして呼ばしめて曰く、

「夫差、而(なんぢ)越人の而の父を殺ししを忘れたるか」と。

周の敬王の二十六年、夫差、越を夫椒(ふしょう)に敗る。

越王勾践(こうせん)、余兵を以(ひき)ゐて会稽山(かいけいざん)に棲(す)み、臣と為り妻は妾と為らんと請ふ。

子胥言ふ、

「不可なり」と。

太宰伯嚭(たいさいはくひ)、越の賂(まひなひ)を受け、夫差に説きて越を赦(ゆる)さしむ。

勾践、国に反り、胆を坐臥(ざが)に懸け、即ち胆を仰ぎ之を嘗めて曰く、

「女(なんじ)会稽の恥を忘れたるか」と。

国政を挙げて大夫種(たいふしょう)に属(しょく)し、而して范蠡(はんれい)と兵を治め、呉を謀るを事とす。

太宰嚭(たいさいひ)、子胥(ししょ)謀(はかりごと)の用ゐられざるを恥ぢて怨望すと譖(しん)す。

夫差乃ち子胥に属鏤(しょくる)の剣を賜ふ。

子胥其の家人に告げて曰く、

「必ず吾が墓に檟(か)を樹ゑよ。

檟は材とすべきなり。

吾が目を抉(えぐ)りて東門に懸けよ。

以つて越兵の呉を滅ぼすを観ん。」と。

乃ち自剄(じけい)す。(後略)

現代語訳

(闔廬は)伍員を取り立てて国の政治を相談しました。

員は、字を子胥といい、楚の人伍奢の子です。

(父の)奢が罪を問われて殺されたので、(員は)呉に逃げ、仇を討つために呉の兵を率いて都の郢に攻め入ります。

その後、呉が越を討伐しました。

この戦いで闔廬は傷ついて命を落としたのです。

そこで子である夫差が王位につきました。

子胥は引き続き夫差に仕えます。

夫差は父親のかたきを打つことを決意しました。

朝晩薪の上に横になり、部屋に出入りする際に家臣に言わせたことには、

周の敬王の二十六年、夫差、越を夫椒に敗けました。

夫差よ、お前は越が自分の父親を殺したことを忘れたのか」と。

周の敬王の二十六年、夫差は、越を夫椒という場所で破りました。

越王の勾践は、残った兵を連れて会稽山に退き、自分は呉の家臣となり妻は妾として捧げるので許してほしいと懇願します。

子胥が夫差に言ったのは、

「許すべきではない」ということでした。

勾践は、夫差の家臣であった伯嚭に頼みます。

(伯嚭は子胥とあまり仲がよくなかったからです。)

太宰であった伯嚭は、越の賄賂を受け、夫差を説得して越王を許させてしまいます。

解放された勾践は、国に帰るや、胆を居間にぶら下げ、いつも胆を仰いでこれをなめて言うことには、

「お前は、会稽の屈辱を忘れたのか」ということでした。

国の政治は大夫の文種にまかせ、自分は范蠡と軍隊を整備し、呉を倒すことだけを考えました。

一方呉では太宰であった伯嚭が、子胥は自分の策が用いられなかったことを恥じて夫差を恨んでいると夫差に嘘の報告をします。

夫差はすぐに子胥に属鏤の剣を与えました。

(死ねという意味です。)

子胥が家族に告げて言うことには、

「必ず私の墓にひさぎを植えなさい。

ひさぎは夫差の棺桶の材料になるだろう。

私の目をえぐって東門にかけなさい。

越が呉を滅ぼすのを見てやろう。」というのです。

そういって子胥は自ら首を刎ねました。

後日談

夫差はよほど憎しみを覚えたのでしょうね。

そのまま子胥を馬の皮でつくった袋につめて揚子江へ流してしまいます。

その後、越は呉を攻めます。

呉は戦うたびに敗れて逃げました。

今度は立場が逆です。

夫差は再び和平交渉を越に願いでたのです。

しかし范蠡は絶対に受け入れようとはしませんでした。

人間はどうしてこれほどに戦さを続けるのでしょうね。

現代にいたっても何もかわっていません。

憎しみの感情はそう簡単に癒えるものではないものなのかもしれません。

同じ轍を踏まないという表現があります。

恩情を与え、それが運命の逆転をもたらすことは、よく知られています。

平氏と源氏もそうですね。

頼朝を殺さなかったことが、結局平氏没落の引き金となりました。

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憎しみを忘れないために、臥薪嘗胆までするという人間の怖さを実感します。

今回も最後までお付きあいいただきありがとうございました。

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