青空文庫
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は芥川龍之介の短編『蜜柑』を読みます。
学校ではやったことがありません。
もっぱら『トロッコ』とか『羅生門』ですね。
自分でブリントして『藪の中』の授業をしたこともあります。
黒澤明監督の映画『羅生門』の原作です。
どこに真実があるのかわからなくなっていく迷路のような小説です。
誰もが自分こそが正しいというものの、真実はとうとう見えません。
今でもわけがわからない時、まるで藪の中だという言い方をしますね。
どれが本当かわからない時の表現です。
この小説を読んだ後、映画『羅生門』を見せると、みんな食い入るように見入っていました。
映画も原作もどちらもすばらしい作品だと思います。
是非1度はご覧になることをお勧めします。
必見の映画です。
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ぼくが個人的に好きなのは芭蕉臨終の様子を描いた『枯野抄』とか、『杜子春』のような作品です。
しかしあえて1作と言われたら、やはり『蜜柑』ですかね。
この小説はそれほどにドラマチックな話ではありません。
ごくささやかな日常の風景の1コマです。
青空文庫に所収されています。
スマホでちょっと覗いてみてください。
10分もかからずに読めます。
本当に短い作品です。
最近はよく青空文庫を利用してタブレットで読むようになりました。
名作がたくさん収められています。
なかなか手に入らない本ばかりです。
ちょっと試してみるといいでよ。
あらすじ
『蜜柑』は芥川龍之介の日常を描いた作品です。
若い頃、彼は横須賀にある海軍機関学校の教官をしていたのです。
鎌倉の下宿への帰り、横須賀線内でたまたま出会った出来事を題材にしています。
海軍機関学校での生活は、時間的拘束や生徒の気風が彼の気分にそぐわないものでした。
なかなか校風になじめなかったのです。
そのためか週末はほとんど田端の自宅に帰っていました。
精神的に落ち着かない日々だったようです。
もちろん、今の電車ではありません。
蒸気機関車です。
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ある冬の日の夕暮れです。
彼は横須賀を出発する列車に乗り込み発車を待っていました。
空が暗く気分が晴れません。
鬱屈した心の中を象徴したような日でした。
陰鬱な風景と倦怠感のせいか夕刊を読む気にもなれなかったのです。
そこへ1人の少女が乗り込んできます。
13~14歳の少女は、ひっつめ髪にしもやけの手、赤ら顔に垢じみた襟巻姿です。
芥川はそのみすぼらしい姿を見るのが嫌でした。
ところが列車がトンネルの中に滑り込むと、少女は芥川の隣の座席に移動してきます。
そして窓を開けようとするのです。
やっとのことで窓は開きました。
その瞬間どす黒い煙が車内に入り込み、彼は咳き込んでしまいます。
列車がトンネルを抜けた途端のことでした。
踏切に差しかかります。
そこには少女と同じ赤い頬をした3人の男の子たちが立っていたのです。
彼らは一斉に列車に向かって手を挙げます。
すると列車から身を乗り出した少女が5、6個の蜜柑を彼らに放ってあげたのです。
芥川龍之介はその時初めて、事情を察しました。
少女が奉公先へ向かう途中であることを。
弟たちに大事な蜜柑を投げて与えたのだということを。
彼の陰鬱な気分はその瞬間に消えてなくなりました。
「得体の知れない朗らかな気持ち」が湧き上がってくるのを感じたのです。
梶井基次郎の『檸檬』
この小説を読んでいると、梶井基次郎の『檸檬』を少しだけ連想してしまいます。
柑橘系の爽やかな果物のイメージが、鬱屈した日常からの回避を誘うのかもしれません。
作者の気分が最初の暗さから、一気に変化する瞬間の描写は見事です。
繊細な心理描写の巧みさにかけては、やはり並々の力ではありません。
海軍兵学校の生徒たちに通じる洗練とは程遠い感性の在り方に我慢がならなかったのでしょう。
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わかりやすくいってしまえば、あまりにも文化的ではない所作事の全てが嫌だったのです。
漱石山房に集う文化人たちの会話に慣れている身としては、許せませんでした。
ソフィスティケートされすぎた人によくある気分だとでもいえばいいでしょうか。
彼はある意味、知的特権階級だったのです。
その正反対の場にいる人々の存在は鬱陶しいものだったかもしれません。
芥川龍之介という作家
町外れの踏切と、小鳥のように声をあげた3人の子供たち。
そうしてその上に乱落する鮮やかな蜜柑の色。
それを見ていた彼の心の中に、ある得体の知れない朗らかな心持ちが湧き上がってきます。
この時はじめて、言いようのない疲労と倦怠とをそうしてまた不可解な、下等な、退屈な人生をわずかに忘れるのです。
文章も大変に短いです。
しかし最後の行は芥川の持つ生の深淵を同時に覗き込んでいるような、怖ろしい部分です。
弟たちと別れて、奉公先へ赴こうとする姉。
暗い目でその一部始終を見ている作者。
この作品の持つ心情の変化に着目すると、空から落ちてきた蜜柑の色までが鮮やかに意識されます。
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小説だけが持つ、もう一つの真実といっても過言ではないでしょう。
芥川龍之介という人は、あまりに先が見えすぎた人なのかもしれません。
いつから自殺を考えていたのかもはっきりとはしません。
しかし晩年に書いた作品は自分の人生にどのような意味があったのかを問うものが多いのです。
享年はわずかに35歳。
告白的な自伝を多く書き、人間社会の愚劣さを批判しました。
やはりもう残された道はないと考えたのでしょうか。
夏目漱石のところへ原稿をもっていってみてもらった頃が、ある意味絶頂だったのかもしれません。
『鼻』を一読した漱石はこれと同じようなものをあと10篇書いたら、日本でも稀有の作家になれるといって大いに力づけました。
その後の道のりをたどってみると、まさに漱石の予言通りになったような気がします。
『大導寺信輔の半生』『点鬼簿』『或阿呆の一生』『河童』などどれをとっても迫力のある作品ばかりです。
一読をお勧めます。
彼の遺書にあったという漠然とした不安という言葉が耳に残りますね。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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