【誰でもよかった・無差別犯罪】コミュニティが消え不条理の闇が来た

ノート

不穏な事件

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、ブロガーのすい喬です。

最近、不穏な事件が続いています。

刃物を持って突然電車の乗客に斬りかかるとか、後ろから追跡して硫酸をかけるとか。

ホームで前に立っている人を線路に突然突き落として殺してしまうといったものです。

かつて秋葉原では歩行者天国にいる人を無差別に殺すという事件もありました。

特定の個人をねらった事件もありますが、「誰でもよかった」というパターンの一言で片づけようとしたケースもあります。

ケガをしたり、殺された人の家族にとっては、何とも理不尽な出会い頭の事故というしかありません。

犯人はどちらかといえば、物静かで目立たない人が多いようです。

いじめにあっていたとか、自分の将来像を見失いかけていたということはあります。

しかしだからといってすぐに殺人に至るなどということは誰も想像できないに違いありません。

なぜこのような事件が起きるのか。

これからも多くの心理学者が分析を試みていくことと思います。

他人に命令されることがイヤだとか、女性に軽蔑された気がするなどというどちらかといえば被害妄想の要素が強い人もいます。

彼らは凶行の結末がどのようになるか想像がつかなかったのでしょうか。

電車に凶器をもって乗り込もうとする自分の構図が見えないのか。

犯行に及ぶ人の中には死にたがっている図式も垣間見えます。

あるいは何も考えなくてもいいから刑務所に入りたいという人もいます。

死刑を希望する人すらいるのです。

完全に自分の存在を社会から抹殺するための手段として他者を殺すということを考えるケースもあります。

自殺するほどの勇気はないけれど、しかし現実の人間関係に翻弄されるのはイヤだ。

この複雑な空間には長くいたくないというパターンもあります。

その結果としての無差別殺人ということに、結果としてなってしまうケースもありました。

あるいは幸せそうに見える人に対する嫉妬心が原因だという犯人の自白も存在します。

現代の闇

いずれも現代という時代の空洞を垣間見る思いがします。

誰もが明るい未来図を描けなくなっている昨今、前進する能力に少しでも欠けているという実感を持っている人々は多いのです。

どうしていいかわからなくなっているのかもしれません。

自殺できる人はそれだけで十分に強い意志力を持っています。

むしろ大多数の人間は、この世界から消えてしまおうとしても、それができません。

右往左往しているのが現状です。

生の実感とはほど遠い場所にいて、それでも生きているのです。

そうした人間達の中で、どうにも動きがとれなくなり、他者との関係が作れなくなった人はどうすればいいのでしょう。

ある意味では塀の向こう側に行くため、あるいは合法的に他者に殺してもらうために、誰でもよかったと呟きながら、殺人を行うのです。

これから先はいくら社会学者や心理学者が分析しても、全てが明快になるとはとても思えません。

むしろ文学の領域なのかもしれません。

事件性のあるものから文学が得るものは、ある意味で荒涼とした人間の魂の風景だけです。

嘘寒いといってしまえば、それまでです。

しかし現代の不安というだけではおさまり切れない人の心の闇の深さを感じます。

多くの犯罪はすぐれた小説を生み出してきました。

ドストエフスキーなどはその代表的な小説家でしょう。

『罪と罰』を読むと金貸しの老婆を殺す大学生ラスコーリニコフの気持ちが少しだけ近いものになります。

彼は1つのわずかな罪悪は百の善行に償われるとうそぶきます。

新しい世の成長のためなら、社会道徳を踏み外す権利を持つ人間も存在するのだと呟くのです。

独自の論理

金貸しの強欲狡猾な老婆を殺し、奪った金で世の中のために善い行いをしようとしたところまではよかったのです。

しかし殺人現場に偶然居合わせたその妹まで殺してしまうところからラスコーリニコフの意識は変化していきます。

やがて彼がもっとも蔑んだ階級の娼婦ソーニャの存在がクローズアップされます。

彼女の自己犠牲に満ちた生き方に心をうたれて最後には自首します。

人間回復のためのヒューマニズムが描かれた小説です。

こうした作品がむしろ人の心の闇をみせてくれるのでしょうか。

もう1作あげるとすればカミュの『異邦人』ですね。

この作品も人間の心の中にある空洞をみごとに描いています。

『異邦人』は不条理を代表する文学と呼ばれています。

人を殺してしまう直前の心理状態はまさに不条理そのものでしょう。

katja / Pixabay

自分の意志で決めたことではないのかもしれません。

どこからか声がきこえ、それが殺人にまで導いてしまう。

ある日、アルジェに暮らす主人公ムルソーの元に、母の死を知らせる電報が養老院から届きます。

葬式のために養老院を訪れたムルソーは、なんの感情も示しません。

その翌日もたまたま出会った知り合い女性と情事にふけったりもします。

普段と全く変わらない生活を送るのです。

ある日、友人のトラブルに巻き込まれ、アラブ人を射殺してしまいます。

ムルソーは逮捕され、裁判にかけられることになりました。

裁判で彼は殺人の動機を「太陽が眩しかったから」と述べます。

死刑を宣告されたムルソーは、神に対する懺悔を行いません。

人々からの罵声を浴びて死んでいくのです。

ムルソーという主人公の名前はフランス語の「ムーリール」(死)と「ソレイユ」(太陽)を繋ぎ合わせて作り上げたと言われています

太陽が眩しかったから、人を殺すという論理には、なんの整合性もありません。

しかしそれがその時の主人公にとっての正当な理由でした。

まさに不条理の世界そのものを代表した表現なのです。

動機なし

現代はあらゆる事柄から意味が抜け落ちようとしています。

犯罪が起これば、当然動機は何かということが問題になります。

しかしそれを追求していく行為が意味を持ちにくくなっています。

どうしたらいいのでしょうか。

それが新しい時代だといえばその通りかもしれません。

人の命がそれだけ軽くなったのかもしれないのです。

同時に多くの人を殺傷できる兵器も次々と開発されています。

テロリズムも起こっています。

アフガニスタンの状況などはまさに混迷というしかありません。

空港へ殺到する人々の構図がにわかには信じられません。

しかし現実なのです。

飛行機にしがみついて亡くなるなどいうことがあるのでしょうか。

そこへ再びテロの爆発が重なり多くの人の命が消えていくのです。

悲しいことですが、誰でもよかったという犯罪の構図が消えることはありません。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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