【落語は音楽】裏拍でリズムをとりながら音と言葉で異次元に誘い込む

落語

語り芸

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、アマチュア落語家のすい喬です。

隋分お客様の前で落語を話していません。

4月にやったのが最後です。

いろいろな予定は全てキャンセル。

コロナには勝てませんね。

つまらないです。

仕方がないので細々と稽古を続けています。

しかしモチベーションがなかなか上がりません。

噺をしなければ生活が成り立たないというワケではないので、かえって厄介です。

所属している落語の会の稽古もズームを使って続けられています。

しかしどうにも力が入りませんね。

ちょっとした間がズレるのです。

タイムラグが微妙にあると、それだけで噺は変わってしまいます。

落語は繊細な芸なのです。

コロナ禍の間に幾つ噺を稽古したでしょうか。

これくらいならお客様の前でやれそうだというところまでいくと、普通は1度高座にかけます。

その時の様子で修正を加えていくものなのです。

しかしそれもできません。

コロナ以降、多くの落語家たちがネットで落語を配信しています。

お客がたとえいなくても、いるのと同じ間で噺をする落語家も存在します。

解像度の高い映像で感度のいいマイクなどの機器を導入すれば可能なのかもしれません。

しかしそこまでの設備を整えることはアマチュアにはできないのです。

誠に無念ですね。

落語論

コラムニスト堀井憲一郎の『落語論』『落語の国からのぞいてみれば』の2冊を再読してみました。

しみじみ落語はライブのものだと感じましたね。

DVDはCDよりもなお、タチが悪いと彼は言います。

場の臨場感が抜け落ちた、いわば脂ののっていない秋刀魚を食べるのに喩えればいいのでしょうか。

なまじ映像があるだけにかえってイケナイと言われると、なるほどそんな気もしてきます。

とくに『落語論』はぼくにとって大変興味ある内容のものでした。

内容は3部に分かれていて、本質論、技術論、観客論からなっています。

その中でも特に噺をする立場から書いた技術論の部分が出色でした。

彼曰く、落語は音楽そのものだというのです。

あるいは歌といってもいいのかもしれません。

リズムとメロディにのって心地よく異次元へ連れていく演者が最も優れているというのです。

音と言葉の二つの要素を「気」で他の世界へ運びます。

それにはやや高めのキーの方が陽気な気分にさせるのです。

ただし自分の歌に酔いしれていては、音がよく聞こえません。

登場人物が2人だったら、その話を聞いている裏の人物の時は、一定のリズムで打ち返してあげるという冷静な操作が必要になります。

いつも第3者の視点を持っている必要があります。

さらに自分の芸が陽か陰かを知らなければなりません。

どうやっても自分のカラーを抜け出すことはできないのです。

それぞれの演者が持っている特製を最大限に生かすということでしか、噺の完成はありません。

この陰陽と音楽のリズムの話は実感がありました。

結局、芸風はその人独自のものなのです。

リズムも俗にいう裏拍に支えられています。

隠居と八っつあんのやりとりも、裏拍のリズムをきちんととれる噺家は自然に演じられます。

しかしやってみると、これが実に難しいのです。

漫才との違い

漫才と落語の違いは相手の話に本気で対立してはいけないところにあります。

隠居が与太郎の話に本気でつっこむと、笑いが出なくなります。

つねにゆとりをもって流していくのです。

まさに音楽で言うところの裏拍です。

この裏拍が実は想像以上に大切なものなのです。

ただの相鎚の場合も、リズムが常に必要になります。

さらに複数の人を声で演じ分けないという鉄則があります。

無理に高い声を出したり、低くしたりするのは最悪です。

声の質をよく捕まえること、さらにブレスをどうとるのかによっても、お客の気が変化していきます。

pixel2013 / Pixabay

1人1人の演者にはそれぞれ独自の間合いというものがあるのです。

お客の緊張をつかんだら離さないために、間も必要となります。

ブレスと深い関わりがあるのです。

噺のうまいヘタは8割が生まれつきのものからくるといった落語家がいました。

実感がありますね。

長くやって気づいたことは、ただ自分の穴を掘っているということだけです。

自分にあわない噺はどれか。

どの噺が自然に演じられるのか。

それを日々試しているのです。

5代目柳家小さんがよく言った言葉の中に、了見がすべてだというのがありました。

その人の性格、気性、間、リズムなどが全部噺に出てくるのです。

他人に教えられてできるものではありません。

自分で穴を掘って探すものなのです

その方法への糸口を師匠が最初の頃だけ教えてくれます。

あとは全て自分で会得するのです。

それ以外に道はありません。

同じ芸風の噺家は2人いりませんからね。

人間認識

現在、落語ブームだといわれていますが、いずれまた落ち着く時がやってくるでしょう。

かつての江戸文化が失われつつある現在、ノスタルジーだけで、人が集まっているとは考えられません。

むしろそこに流れている時間感覚、人間認識に自然と吸い寄せられていると言った方がいいのではないでしょうか。

落語にはこんな人間でも生きていていいのだという安心感があります。

今のようにシステム化された時代に生き残れる人間のパターンは決まっています。

学校では誰もが失敗しないことを大前提に進みます。

しかし全てがうまくいくワケではありません。

必ずその網から落ちていく人も出てきます。

そうした彼らにも生きていく道はあるという、ある種のユルさを教えてくれるのが落語なのです。

これは演じてみればわかりますが、与太郎を演じた後は、不思議と神経が楽になります。

与太郎は現代でいえば落伍者です。

しかし彼の存在を認めてくれる仲間に支えられ、十分に落語の世界では生きていられるのです。

大きな包容力の中にいれば安心です。

昨今、寄席はクラウドファンディングをして生き残ろうと必死です。

1000人になろうとする噺家たちの仕事場は数が限られています。

それでも精進をしながら続けているのにはそれなりの理由があるのです。

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1度寄席に出向き、その意味を考えてみてください。

今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

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