戦後の風景
宗教学者山折哲雄の書いた『美空ひばりと日本人』を久しぶりに読みなおしました。
この歌手くらい、多くの日本人に影響を与えた人はいないと思います。
好きにせよ、嫌いにせよという言葉が頭にくっつきますけどね。
彼女の存在そのものが、日本の戦後の風景そのものであったといって言い過ぎではないでしょう。
そのくらい焼け跡から高度経済成長への過程において、存在感は圧倒的なものでした。
太い声から高音域まで、実にいくつもの色合いをもった歌手でした。
暴力団組長との関係。
母親への異常なほどの密着。
弟に対する偏愛。
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いずれも美空ひばりを語る時に忘れてはならないことです。
歌は好きだけれど、人間性は嫌いだという台詞はずっとこの歌手についてまわりました。
バッシングも何度か受け、マスコミから敬遠された時期もあります。
それでも『柔』『悲しい酒』などのヒットが、彼女の存在を再び浮き上がらせました。
古賀政男メロディの哀切さは、説教節や御詠歌にまでさかのぼることができると山折さんは書いています。
俗にいうヨナ抜きの短調のメロディが、日本人の奥底に眠っている情念を掘り起こすことに成功したのでしょう。
ご存知でしょうか。
演歌には4番目と7番目の音を抜いた曲が多いのです。
ドレミの音階で言うと、ファとシです。
ちなみに沖縄民謡などの歌は琉球音階と呼ばれ、ド・ミ・ファ・ソ・シの5音からできています。2番目と6番目の音がないのです。
面白いですね。
港や酒に代表される演歌の世界は、知らずに漂泊、無常を抱え込んでいる民族の心に訴えたのかもしれません。
生い立ち
美空ひばりが生まれたのは1937年5月です。
9歳でデビューし、その後は歌謡曲、映画、舞台などで活躍しました。
昭和の歌手といえば、なんといってもこの人でしょう。
もちろん、他にも歌謡曲を歌った人はたくさんいます。
しかし彼女ほど伝説に満ちた人はいないのではないでしょうか。
たえず周囲に人を侍らせ、それが不幸や禍いの元になっていきました。
そのたびに母親を主軸とする家族が周囲を固めます。
その姿がまた世間からバッシングを受けるということの連続でした。
特に暴力団関係者と親しく交際していたことが、後々まで彼女の生き方を支配しました。
戦前から戦後にかけて興行の世界と暴力団との関係は切ってもきれないものでした。
しかし多くの芸能人はそれを隠して営業を続けたのです。
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地方巡業などでは興行師の世話にならなければ、仕事になりませんでした。
特に演歌の世界はそれが顕著だったのです。
暴力団の収入源でもありました。
そのトップにいた人たちとの親密な交際が次第にマスコミの餌食にもなりました。
彼女以後の演歌歌手の優等生ぶりとは全く正反対の美空ひばりという人間の存在感は、それだけ強烈なものでした。
一卵性親子と呼ばれた母親の死、弟の死を経て、彼女は本当の孤独を知るようになります。
俳優小林旭との結婚生活も短いものでした。
歌手は自分の中にもう1つ別の世界を持っています。
歌う時は、孤独な1人の人間に戻るのです。
そこに佇む時、聞き手の中に歌手の残像が仄かに見えてくるのです。
その影が全くない歌手は大成しません。
歌が上手い人はいくらでもいます。
しかしプラスアルファの何かが最終的な魅力の源泉なのです。
不死鳥伝説
美空ひばりは大病をしました。
精神的な苦悩や肉体的な苦痛が重なったのでしょう。
重度の慢性肝炎の他、いくつもの病気を発症していました。
マスコミにはほとんど隠していたのです。
1988年4月、東京ドームのこけら落しとなるコンサートが「不死鳥/美空ひばり in TOKYO DOME 翔ぶ!! 新しき空に向かって」でした。
「不死鳥」をイメージした金色の衣装など、舞台衣装は森英恵がデザインしたものです。
テレビでの中継は勿論、その後何度もドキュメンタリーなどにもなりました。
今でもその時の公演の様子がテレビで流れることがあります。
この東京ドーム公演の会場客席には、多くの芸能人も顔を見せました。
美空ひばりのこの公演だけは聞き逃したくないという気分が多くの人に共有されていました。
復帰ステージにはそれだけの重みがあったのです。
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あと何年歌えるのかという心配を誰もが抱いていました。
それでも彼女は脚の激痛に耐えながら合計39曲を熱唱しました。
立つことも難しいと言われた中でのステージでした。
公演のエンディングでは約100mの花道をゆっくりと歩いたのです。
芸人根性そのものといえばいいのでしょうか。
本来ならば歩ける状態ではありません。
彼女はそのまま救急車に乗せられて東京ドームを後にしました。
「完全復活」どころか、事実上の引退公演に近いものでした。
39曲を歌い終わった時は、もう全てのエネルギーを使い果たしたと思ったのでしょう。
どんな曲を歌ったのか。
皆さんも必ず知っている曲があるはずです。
悲しき口笛. 東京キッド. 越後獅子の唄. お祭りマンボ. 港町十三番地. 柔. 塩屋崎
リンゴ追分. 真赤な太陽. 悲しい酒. ひばりの佐渡情話. 愛燦燦. 人生一路
涙が涸れる
山折哲雄はその時のビデオを何度も見たそうです。
彼女が歌の中で流す涙もついに涸れ果ててしまったという事実に気づきます。
いつもなら涙をうかべて歌う『悲しい酒』の時もついに、一筋も流れなかったというのです。
そこに生きる力の衰えを見たと彼は書いています。
これだけ日本人の心をえぐりとった演歌歌手はそういないに違いありません。
しかし現代の子供達はもう短調の曲を聴こうとしません。
その理由の第1はコマーシャルソングにあると言います。
長調のメロディに馴れた子供達の中枢神経に、短調の哀切なメロディは巣くっていないのです。
演歌はやがて日本の古い芸能と同様に消えていく運命にあるのかもしれません。
自分のことを積極的に語ろうとしない現代の演歌歌手と完全に一線を画した美空ひばりの時代も、やがては伝説そのものになっていくのでしょうか。
酒と怨みの歌の系譜はブルースにもない日本独自の世界だと思います。
東京キッドや越後獅子の世界には不思議な心のたゆたいがあります。
常に北をめざす演歌とは日本人にとって、どういう意味を持つのか。
もう少し考え続けてみたいテーマでもあります。
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彼女の持ち歌の中でこれからも通用していく曲はなんだろうかと考えてみたことがあります。
代表は「川の流れのように」でしょうね。
歌いながら涙を流すという歌ではありません。
人生を川になぞらえたごく自然な曲です。
もう1曲は「愛燦燦」でしょう。
小椋佳の作曲したこの曲の寂しさは人間存在の哀しみを歌っています。
涙を必要とはしません。
それでいて、明日への意志をも感じさせます。
昭和を代表した歌手は今後どうなるのか。
多くの日本人に愛され続けるのでしょうか。
団塊の世代が消え去る頃に、ヨナ抜きの代表でもあった美空ひばりがどうなるのかを知りたい気持ちもあります。
ジャズのセンスもあった彼女のことです。
スイング感は抜群でしたね。
52年間の生涯でした。
江利チエミ、雪村いずみとの3人娘の時代もとうに過去のものになりました。
今回も最後までお付き合いいただきありがとうございました。