【癒し系万能】なにげにマジでヤバい現代に人々は疲れ切っている

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癒し系万能

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、ブロガーのすい喬です。

今回は癒し系万能の話を書きます。

昨今はなんでも癒しですからね。

そんなに人々は疲れているのでしょうか。

間違いなく、くたびれているのです。

コロナ禍の中、日々ストレスにさらされています。

2年間もの間、我慢をし続けてきました。

どこにも怖くて出かけられないという人もいます。

毎日、密な電車に乗って出勤しているサラリーマンやOLも多いのです。

リモートで働ける仕事に携わっている人はまだ幸せなのかもしれません。

しかし面と向かって言いたいことをいい、大声で笑いあうこともできません。

机の周りにお気に入りの植物を置いたり、動物のぬいぐるみをセットしたり、悲しくなるくらい必死なのです。

同僚と会社帰りに一杯やることもなくなりました。

歓迎会も送別会もありません。

こんな時代になるとは誰も想像できませんでした。

誰もが癒されたいのです。

1人1人が責任ある個人でいなければならない時代になりました。

長く続いた祈りの対象が遠くへ退いてしまったのです。

人間よりもはるかに偉大な天上の神たちがいつの間にかどこかへいなくなってしまいました。

残ったのは自分を律することのできる人間だけが勝ち残るという厳粛な図式です。

人々はつねに戦うことを余儀なくされています。

学ばなければ、蹴落とされてしまうのです。

全ては自己責任という厳しい現実が待っています。

ぼんやりしていれば、騙される。

人がいいだけでは生きていけない社会の波の中にいます。

せめて癒されたいじゃありませんか。

モフモフ系も結構。

自宅でお皿を焼くのも結構。

ペットといるのが至福の時なのです。

時代の感性

生徒の使う言葉を聞いていると、時代の感性を強く感じます。

「ぶっちゃけ」という表現もよく聞きます。

何をそんなにぶちまけなければならないのか。

いつも何かを隠しているんでしょうね。

1つの発言が自分の立場を悪くすると思い込んでいるのかもしれません。

「なにげに」もよく耳にします。

なにげなくという感覚が時代にマッチしているのか。

あまりそのことに首をつっこみたくはないものの、やはり気になるというところでしょうか。

自分の意志とは無関係に向こう側からやってきたから、ついコミットしてしまったというニュアンスです。

つまり人間関係を積極的に構築する意志はないものの、しかし1人でいるのは寂しいのです。

とはいえ、あまり深く首をつっこんで疲れたくはありません。

geralt / Pixabay

人間は必要以上に接近するといわゆる「山嵐コンプレックス」と呼ばれる相互に傷つけ合う行動に出てしまいます。

御存知ですか。

急に針を突き立てて、相手を攻撃し始めるのです。

それを避けるためには程良い距離を保つことが大切です。

つまり「なにげに」の関係が最も適当だということです。

これは全てを明確に規定することに柔らかく拒否の姿勢を示している言葉です。

つまりこちらの系列でもありうるし、もう一つの系列でもありうる。

非常にフットワークの軽い位置に自分が立っていることをアピールできます。

生徒達はこれを実に様々な局面で見事に使いこなしています。

「マジ」と「ヤバい」

最近1番よく耳にするのはやはり「マジ」と「ヤバい」でしょうか。

「マジ」は芸能関係者だけが使う表現でした。

1種の楽屋言葉です。

お客さんに聞かれたくない表現は短くするか、ひっくり返して言うのが習わしでした。

お金にまつわる内容も全て符丁で表現したのです。

「マジ」はテレビからすぐ世の中に飛び出しました。

なんにでもマジをつければ、それらしくなります。

便利な符丁です。

これと「ヤバい」をくっつけると万能ですね。

「マジでヤバい」というのは今や、最高級の誉め言葉です。

かつてはマイナスのイメージでした。

Pezibear / Pixabay

今は全く逆です。

さらに「癒し系」という言葉が氾濫していますね。

癒すという感覚はどこかに甘えと安らぎを感じさせます。

これだけシステムががっちりと作り上げられてしまった社会の中で、どうそこからはみ出していくのか。

これは難問中の難問といってもいいのではないでしょうか。

多くの人間はストレスの堆積で、身動きがとれなくなっています。

そこへ「癒し系」と呼ばれる何かが登場すれば、格好の福音となるのです。

食べものでも生き物でも人でも、何でもかまいません。

彼らはある意味中世に存在した道化の役まで負わされるかもしれないのです。

そこまでいかないにせよ、自分の地位を曖昧なままにしておくために、この「……系」という表現は大切です。

学問の分野

学問の分野でも学問の境目、境界線上のテーマが今や主流です。

学際的な研究が「……系」という枠組みの中でまとめられているのです。

文理融合型の学問が盛んです。

ジェンダー人類学、環境人間学などといわれても、すぐになんの研究かわかりません。

誰も手をつけなかった領域がまさに時代の寵児となるわけです。

さらに最近よく耳にする表現の一つが「微妙」です。

何が問題なのかという質問に対して、生徒は瞬時に「ビミョー」と答えます。

これはある意味判断停止の表現です。

自分では白とも黒とも断定したくないという感覚が明確に、ここからはみてとれます。

つねに判断を他者に依存し、自分は安全圏にいたいという心の様子がよくわかるのです。

価値を限定することに対する怖れを感じますね。

自己判断をつねに迫られるのが現代です。

そして、次にやってくる自己責任の嵐。

決断を留保しようとする心の底には何があるのでしょうか。

誰が最終判断を下すにせよ、そこまで深く関わりたくないという心理状態が、ますます強くなっています。

今回のオリンピックもまさにそれです。

だれが決めているのか。

どこまで責任をとるのか。

実に曖昧ですよね。

ある意味、これは大変危険なことです。

多くの人間が判断することに疲れ切った時、一種の専制政治が始まるのかもしれません。

会社の内部でも学校でも全く同じ構造です。

判断停止を自分から望み、結論を先に伸ばす。

そして誰も責任をとらない。

大人も若者だけを批判することはできなくなっています。

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人より目立つことはせず、しかも責任はとりたくない時代はこれからどこへいくのでしょうか。

今回も最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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