姨捨伝説
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は『大和物語』を取り上げます。
平安時代が始まって100年を過ぎた頃、仮名の文学作品が生まれるようになりました。
ちなみに仮名はあくまでも仮の文字という意味です。
その反対に真名は本当の字で、公的な文字とされました。
漢字をさすのです。
役所の文書は全て「真名」(まな)でなければなりませんでした。
仮名は私的な文字という位置づけなのです。
平安時代には日本文学の金字塔『源氏物語』が生まれました。
これは画期的なできごとでした。
その先駆けとなったのが『伊勢物語』です。
在原業平を主人公とする歌物語です。
彼が光源氏のモデルだと言われているのです。
その頃もう1つの歌物語も生まれました。
それが『大和物語』です。
![](https://suikyoblog.com/wp-content/uploads/2019/12/reading-925589_640.jpg)
当時の歌人の歌や古歌にまつわるエピソードを集めた作品です。
『伊勢物語』に比べるとやや大人しい印象ですが、味わいのある文章が綴られています。
これらの物語が結晶してやがて『源氏物語』になったと考えればいいのではないでしょうか。
今回は156段「姨捨山」を読みます。
この伝説は各地にあり、岩手県遠野市のデンデラ野などにも似たような話があります。
この物語では長野県千曲市の南部、更級に残る伝説を扱っています。
冠着山(かむりきやま)という名前の別名が「姨捨山」そのものなのです。
年老いた人たちを山に置いてくる話は、深沢七郎の小説『楢山節考』にある通りです。
かつては口減らしのために、このようなことが行われたのでしょう。
それだけ生活が苦しく、老人を養うことは大変だったと想像されます。
現代でも高齢者の介護を含め、老人問題は深刻です。
決して昔の話だと言いきれない要素をたくさん持っているのです。
本文
信濃の国に更級といふ所に、男住みけり。
若き時に親死にければ、をばなむ親のごとくに、若くより添ひてあるに、この妻の心、憂き
こと多くて、この姑の、老いかがまりてゐたるを常に憎みつつ、男にもこのをばの御心のさ
がなく悪しきことを言ひ聞かせれけば、昔のごとくにもあらず、おろかなること多く、この
をばのためになりゆきけり。
このをば、いといたう老いて、二重にてゐたり。
これをなほ、この嫁、ところせがりて今まで死なぬことと思ひて、よからぬことを言ひつつ
「もていまして、深き山に捨て給びてよ。」
とのみ責めければ、責められわびて、さしてむと思ひなりぬ。
![](https://suikyoblog.com/wp-content/uploads/2019/09/未来_1569841087-1024x682.jpg)
月のいと明かき夜、
「嫗ども、いざ給へ。寺に尊きわざすなる、見せ奉らむ。」
と言ひければ、限りなく喜びて負はれにけり。
高き山のふもとに住みければ、その山にはるばると入りて、高き山の峰の、下り来べくもあ
らぬに、置きて逃げて来ぬ。
「やや。」と言へど、いらへもせで、逃げて家に来て思ひをるに、言ひ腹立てけるをりは、
腹立ちてかくしつれど、年ごろ親のごと養ひつつ相添ひにければ、いと悲しくおぼえけり。
この山の上より、月もいと限りなく明かく出でたるをながめて、夜一夜、寝も寝られず、悲しうおぼえければ、かく詠みたりける。
わが心なぐさめかねつ更級や姨捨山に照る月を見て
と詠みてなむ、また行きて迎へ持て来にける。
それよりのちなむ、姨捨山と言ひける。
なぐさめがたしとは、これが由になむありける。
現代語訳
信濃の国の更級という所に、男が住んでいました。
幼いときに親が死んでしまったので、伯母が親のようにして育ててくれました。
彼の幼いときから傍にいたものの、この男の妻はつい薄情なことをしがちでした。
この姑が、年をとって腰が曲がっていたのを、常に憎らしく思うこともあったのです。
男にもこの伯母に対する気持ちを話していました。
そのうち、男は昔のように伯母を大切にすることがなくなりました。
おろそかにしてしまうことが多くなっていったのです。
この伯母は、たいそうひどく年老いて、腰が折れ曲がっていました。
このことをいっそう、この嫁は、厄介に思ったのでしょう。
よく今まで死ななかったことよと、嫌味を口にしながら、「伯母を連れていらっしゃって、深い山にお捨てになってください。」とばかり夫にせきたてたのです。
男は大変困り、ついにそうしようと思うようになりました。
月の大変明るい夜に、「さあいらっしゃい。寺でありがたい法要をするというので、お見せ申し上げましょう。」
と言うと、この上なく喜んで背負われたのでした。
彼らは高い山のふもとに住んでいたので、その山の遥か遠くまで入っていきました。
![](https://suikyoblog.com/wp-content/uploads/2019/09/雲_1569570066-1024x468.jpg)
下りてくることができそうにない山の峰に、伯母を老いて逃げてきたのです。
「これこれ」
と伯母は言うのですが、男は答えもしません。
逃げて家に戻り伯母のことをぼんやり考えていました。
すると、妻が伯母の悪口を言って腹を立てさせたときは、嫌だったのに長年親のように養い続けて一緒に暮らしていたので、とても悲しい気分になったのだと言います。
男はこの山の上から、月がたいそう明るく出ているのを物思いにふけりながらぼんやりと見ているうち、一晩中、寝ることもできませんでした。
あまりに悲しく思えたので、このように歌を詠みました。
自分の心を慰めることができません、更級の姨捨山に照る月を見ていると
と詠んで、また山へ行って伯母を迎え連れて戻ってきました。
それからのち、この山のことを姨捨山というようになったのです。
慰めがたいというときに姨捨山を引き合いに出すのは、これが理由だということです。
唯一の救い
この話を読んでどのように感じましたか。
ぼく自身、実際にデンデラ野へ行って、最後に老人を置いてくるという藁の家に入ったこともあります。
遠野ではデンデラ野から畑仕事に出かける老人もいました。
いくらかのコメや野菜をもらって、またデンデラ野へ戻るのです。
身体の自由がきかなくなると、そこには自然死が待っています。
『大和物語』は遠野地方とは違う展開です。
あまりにつらくなって男が伯母を家につれて帰る、という結末になっています。
そこが唯一の救いと言えるのかもしれません。
『楢山節考』に出てくる主人公おりんは、ある意味もっと主体的でもあります。
老人を騙したり無理やりに山に捨てに行くという話ではありません。
主人公おりんは家族の食い扶持を減らすために、自ら死を選ぶのです。
それだけの覚悟をあらかじめ持っています。
小説の中には予想通り死ぬのが怖くなって、山からおりてくる人も登場します
無理やり山に捨てられる場面もあります。
![](https://suikyoblog.com/wp-content/uploads/2020/10/undraw_donut_love_kau1-1024x665.png)
昔の人たちは食料を確保するためにどれだけ苦労をしてきたのか、ということが目に見えるようです。
子供達への愛を実践することがすなわち、自らの死を選択することに他なりませんでした。
命より先にある大切なこととは何か。
日本の歴史の一断面と言っても過言ではないでしょうね。
どうしてもこの問題を考えていると、現代日本の高齢化の問題を考えざるを得ません。
若い世代に医療費、年金、少子化という莫大な負債を残していくサイクルは、姨捨山の時代と何もかわっていないのです。
考えていると言葉が出なくなります。
介護施設へ預けることの意味も、そこでは深く問われます。
あなたも考えてみてください。
今回も最後までお読みくださり、ありがとうございました。