【悟浄歎異・中島敦】沙悟浄の目から見た孫悟空・三蔵法師の真実とは

本

悟浄歎異(ごじょうたんに)

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は中島敦の名短編を読みます。

1942年、彼は中国の古典『西遊記』に題材を求め、この作品を発表しました。

授業で扱った記憶はありません。

学校ではもっぱら『山月記』がメインでしたね。

しかしこの作品は、ある意味で人間観察にすぐれた中島敦の姿がよく出ています。

他者をどのように視点で捉えていたのかということがよくわかるのです。

人間関係を構築することは現代人にとっても至難の業です。

最もストレスのたまる作業に違いありません。

ポイントは三蔵法師という人間をどう捉えるのかということです。

それぞれの登場人物が、彼を中心として回っています。

その距離感を第三者の目で一歩下がり、冷静に見て取ろうとしたのが沙悟浄です。

この作品を元に入試問題がつくられたことがあります。

かつて琉球大学で出題されました。

国語の試験にはさまざまなタイプのものがあります。

チャンスがあったら、是非目を通しておいてください。

全文はやや長いので、ここには収録できません。

青空文庫には所収されています。

読了するのにそれほどの時間はかかりません。

ぜひ、チャレンジしてください。

国語の勉強はまず読むことです。

小説や評論を読むことによって読解力が飛躍的に伸びます。

良質の作品に多くあたってください。

それが結局は1番の近道なのです。

小説本文(Ⅰ)

三蔵法師は不思議な方である。

実に弱い。

驚くほど弱い。

変化の術ももとより知らぬ。

途で妖怪に襲われれば、すぐに掴まってしまう。

弱いというよりも、まるで自己防衛の本能がないのだ。

この意気地のない三蔵法師に、我々三人が斉(ひと)しく惹かれているというのは、いったいどういうわけだろう?

(こんなことを考えるのは俺だけだ。悟空も八戒もただなんとなく師父を敬愛しているだけなのだから。)

私は思うに、我々は師父のあの弱さの中に見られるある悲劇的なものに惹かれるのではないか。

これこそ、我々・妖怪からの成上がり者には絶対にないところのものなのだから。

三蔵法師は、大きなものの中における自分の(あるいは人間の、あるいは生き物の)位置を――その哀れさと貴さとをハッキリ悟っておられる。

しかも、その悲劇性に堪えてなお、正しく美しいものを勇敢に求めていかれる。

確かにこれだ、我々になくて師に在るものは。なるほど、我々は師よりも腕力がある。

多少の変化の術も心得ている。

しかし、いったん己の位置の悲劇性を悟ったが最後、金輪際、正しく美しい生活を真面目に続けていくことができないに違いない。

あの弱い師父の中にある・この貴い強さには、まったく驚嘆のほかはない。

内なる貴さが外の弱さに包まれているところに、師父の魅力があるのだと、俺は考える。

もっとも、あの不埒な八戒の解釈によれば、俺たちの――少なくとも悟空の師父に対する敬愛の中には、多分に男色的要素が含まれているというのだが。

小説本文(Ⅱ)

悟空には、嚇怒(かくど)はあっても苦悩はない。

歓喜はあっても憂愁はない。

彼が単純にこの生を肯定できるのになんの不思議もない。

三蔵法師の場合はどうか? 

あの病身と、禦(ふせ)ぐことを知らない弱さと、常に妖怪どもの迫害を受けている日々とをもってして、なお師父は怡(たの)しげに生を肯(うべな)われる。

これはたいしたことではないか!

おかしいことに、悟空は、師の自分より優っているこの点を理解していない。

ただなんとなく師父から離れられないのだと思っている。

機嫌の悪いときには、自分が三蔵法師に随っているのは、ただ緊箍咒(きんそうじゅ)(悟空の頭に箝められている金の輪で、悟空が三蔵法師の命に従わぬときにはこの輪が肉に喰い入って彼の頭を緊め付け、堪えがたい痛みを起こすのだ。)のためだ、などと考えたりしている。(中略)

二人とも自分たちの真の関係を知らずに、互いに敬愛し合って(もちろん、ときにはちょっとしたいさかいはあるにしても)いるのは、おもしろい眺めである。

およそ対蹠的(たいしょてき)なこの二人の間に、しかし、たった一つ共通点があることに、俺は気がついた。

それは、二人がその生き方において、ともに、所与を必然と考え、必然を完全と感じていることだ。

さらには、その必然を自由と見做(みな)していることだ。

金剛石と炭とは同じ物質からでき上がっているのだそうだが、その金剛石と炭よりももっと違い方のはなはだしいこの二人の生き方が、ともにこうした現実の受取り方の上に立っているのはおもしろい。

そして、この「必然と自由の等置」こそ、彼らが天才であることの徴でなくてなんであろうか?

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登場人物の横顔は誰でも知っていると思います。

ここで語り手になっている沙悟浄は2人の兄弟子(孫悟空、猪八戒)と比較するとその活躍はわりあいに地味です。

兄弟子たちが妖魔を相手にしている時も、もっぱら三蔵法師の身辺保護を任される事が多いのです。

また、我の強い兄弟子たちの喧嘩の仲裁に立つのも彼の役目です。

そういう立場の沙悟浄に語り手をさせた理由はこのあたりにあるのでしょう。

三蔵法師と孫悟空

孫悟空が三蔵法師をどのように見ているのかというのが、この作品の大きな核心です。

それをさらに沙悟浄がどのように見て取っているのか。

この観点の違いを冷静に読み取ることで、文章の読解が先へ進みます。

授業で扱うにしても、この部分が中心になるでしょう。

ヒントはここに載せた本文の最初の部分にあります。

「三蔵法師は弱い」「実に弱い」「驚くほど弱い」とあります。

これが認識の全てです。

自己防衛の本能がないと言い切っています。

法師は生きるものの哀れさと貴さを悟り、悲劇性に堪えることを知っています。

だから悟空はみていられないのです。

弱き者への憐憫の情もそこにはあります。

孫悟空自身、自分の力に対するうぬぼれが全くないとはいえないでしょう。

同時に少しくらいの力などは、なんの役にも立たないという認識を持っているかもしれません。

沙悟浄はどうでしょうか。

なぜ悟空は三蔵法師についてどこまでも行こうとするのか。

生き物のすべてが持つ、優者に対する本能的な畏敬、美と貴さへの憧れがそこに根深く巣くっていると見ています。

それを悟空は知らないのです。

2人とも自分たちの関係を十分に知らないまま、旅を続けています。

ただし1つの共通点があることも見抜いていました。

それは最後の部分にでてくる表現の中にあります。

「所与を必然と考え、必然を完全と感じていることだ。さらにはそれを自由とみなしていることだ」という点です。

与えられたものが全てであり、それが自分を作り出している。

つまり生の肯定そのものです。

外面的な困難にぶつかった時、三蔵法師はその解決を自らの内側に求めます。

しかし孫悟空は実行力に求めたのです。

それぞれが、その生きざまを肯定しているという事実が最も重いということを忘れてはいけません。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

【山月記・中島敦】臆病な自尊心と尊大な羞恥心のゆえ虎になった男の話
中島敦の小説『山月記』は必ず高校で習う小説てす。人間ならば誰でもが持つプライドが邪魔をして、素直になれないということがあります。その故についに仕事をやめ、詩人になろうとしました。しかし挫折し、やがて虎に変身してしまうのです。
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