ナンセンスの極致
みなさん、こんにちは。
アマチュア落語家、すい喬です。
今年の桜もいよいよ散り始めてしまいました。
例年より早く咲いたようですが、それだけ散るのも早い。
なんとも気ぜわしい花です。
しかしこの花には格別の味わいがありますね。
本当に狂ったように咲くという形容があたっているのかもしれません。
古来、たくさんの人が桜を歌に詠んできました。
ぼくが好きなのはこれです。
世の中にたへて桜のなかりせば春のこころはのどけからまし
在原業平が詠んだものです。
「古今集」にも収められています。
桜がなかったら、春はもう少しゆっくりと暮らせるのになあと逆方向から桜を誉めています。
けっしてない方がいいなどと言っているのではありませんよ。
あるからハラハラしていなくちゃいけない。
でも桜がなかったら、こんなにつまらないことはないというのです。
いつ咲くのかと待っていると、突然つぼみが開き、またすぐに雨や風にさらされて散っていく。
こんなにせわしない花はありません。
だからいいのです。
仮定法で書かれた歌は珍しいです。
この歌は『伊勢物語』にも載っています。
さて今回は桜の咲いた後に残るさくらんぼを題材にした落語です。
ここまでばかばかしいと、もう何も言えません。
人間の想像力にただ脱帽するしかないかな。
超ド級と書きましたが、ここまでナンセンスな噺は他にはありません。
狸がお札に化けるなんてのは、これに比べたらかわいいもんです。
その由来
元々この噺はどこからきたのでしょうね。
落語は小咄の発展系ですから、本当のところはよくわかりません。
ただ面白ければいいんじゃないですか。
物知りの方に伺ったら、これは『徒然草』あたりが原典じゃないかということでした。
ご存知ですよね。
高校時代に古典の授業で習いました。
ぼくは高校で国語を教えていたので、隋分やりました。
1番好きなのは、鼎という足のついた壺みたいなのを頭からかぶって、それが抜けなくなるというお寺のお坊さんの話です。
これはほんとにばかばかしかった。
こんなの授業でやってていいのかなと何度も思いました。
強烈なネタです。
そこまでいかないけれど、第45段に「榎木の僧正」という話が載っています。
似ているといえばなんとなくそれっぽいです。
僧房の傍らにあった榎木を切ったら根っこが残り、さらにそれを掘り取ったという話です。
そこに水がたまって堀になったらしいです。
それだけの話なんですけどね。
榎木の僧正が、きりくひの僧正になり、最後は堀池僧正と呼ばれましたとさという話です。
ここから「あたま山」まで一気に飛躍するものでしょうか。
人間の持つ想像力はとてつもないものですね。
元の話はどうやら江戸時代の笑い話や民話みたいです。
大阪では「さくらんぼ」というタイトルで演じられています。
すごく難しい
演者は多くいます。
桂枝雀師匠なんて、1番イメージがあってるかな。
なんとも軽妙でそらとぼけてないと、この噺はできません。
とにかくあり得ないことを平気で喋らなくてはいけないのです。
そんなことあるわけないでしょと1度でもお客さんが考えたら、そこで終わりです。
話し始めたら、最後まで一気にいかなくてはなりません。
お客様を素に戻さないだけの力量のない噺家には絶対にできないのです。
あらすじは簡単です。
花見に出かけた吝兵衛(けちべえ)さん。
桜の下でのドンチャン騒ぎをただ脇でみているだけです。
とにかくけちん坊ですからね。
するとサクランボが1つ落ちているのを見つけました。
あわててこれを口に入れて家に帰って寝てしまったのです。
翌朝、頭が痛いので目を醒ましてビックリ。
頭のてっぺんから桜の木の芽が出ているじゃありませんか。
せっかく出てきたのにもったいないと、そのままにしておいたらなんと花が咲きました。
さあ、そうなると吝兵衛さんの頭の上で花見や宴会が始まります。
しまいには喧嘩騒ぎまで始まる始末。
これはたまらんというワケで、桜の木を引っこ抜いてしまいます。
するとその跡にぽっかりと大きな穴ができました。
ある時、すごい夕立にあいます。
頭の上の穴に水がいっぱい溜ってしまったのです。
吝兵衛さん、そのままにしておいたからたまりません。
今度はダボハゼ、鮒、ドジョウに鯉が棲息し始めました。
とうとう頭の池が絶好の釣り場になってしまったのです。
釣り人がどっと押し寄せます。
芸者連れの屋形舟まで出て飲めや歌えの大騒ぎ。
四六時中、うるさくて眠ることもできません。
こんな苦労をするのだったらというわけで自分の頭の池にドボーンと身を投げてしまったというお話です。
鋭い想像力
この噺はよほど想像力を刺激するんでしょうね。
いろいろな人がアプローチをしています。
もちろん、落語家だけじゃありません。
短編のアニメになったり、童話になったり、狂言にも踊りにもなっています。
いかにもありそうであり得ないという設定が愉快なんでしょうね。
しかし実際に演じるとなると、これが実に難しい。
東京では林家正蔵師匠が隋分と工夫をして、やっていました。
噺のイメージとして、サクランボと桜の花がいいのかもしれません。
あたまの上で桜の花が咲くなんて愉快じゃないですか。
国語の教師だった身としては、やはり『桜桃』と言えば太宰治がすぐに出てきます。
彼が自殺した日を桜桃忌と呼び、今も冥福を祈る人があとを絶ちません。
しみじみとしたいい小説です。
1度、読んでみてください。
いろいろな感情がないまぜになって、なんとなくこの噺には敬意を表したくなります。
しかし自分でやろうとは思いません。
それほどの時間はかかりませんが、大変に難しい落語です。
おそらくここまでナンセンスが横溢しているのはそうそうないでしょうね。
ぼくが知っているところでは、古今亭志ん生師匠がよくやっていた「疝気の虫」くらいです。
とにかく落語は奥が深いです。
チャンスがあったら是非1度聞いてみてください。
最後までおつきあいいただきありがとうございました。