世界標準
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は世界標準の授業について考えてみましょう。
先日の新聞に、ある国立大学工学部の話題が掲載されていました。
最低基準の学業成績を修められない学生を対象に退学勧告をするというのです。
新しいシステムについてのものでした。
約5%の学生が成績不振者に該当するそうです。
成績の振るわない者に共通して言えることは、自我の形成が未熟で幼児性が目立ち、自己管理能力が乏しいことです。
人生の夢を構想する能力にも劣っているといいます。
ある程度の受験勉強をして大学に入ってきた学生でも、それが実態なのです。
現在、私立大学の半数の学生は受験勉強をしていません。
こういうと驚く人もいるでしょうね。
嘘ではありません。
今では高校時代の成績と面接、小論文などで合格通知を手にすることができるのです。
いわゆる推薦入試がそれです。
大学は18歳人口が少なくなるのを極端に怖れています。
入学定員を充足させることに腐心しているのです。
その究極の形が推薦入試だといってもいいでしょう。
もちろん、現在行われている全ての推薦入試がこの水準だというワケではありません。
なかには非常に難しい、レベルの高い選抜も当然あります。
そのなかでも、AO入試と呼ばれるものは早くから青田刈りの要素が指摘されてきました。
内申点を記載した調査書と呼ばれるものも必要がないという大学もあります。
Fランク大学などという言葉を聞いたことがありますよね。
いわゆるボーダーラインのない大学です。
受験すれば必ず合格します。
勉強とはあまり縁のない生徒も、確かに存在することは間違いありません。
退学と復学
この国立大学では一度退学させ社会に出た後でも、勉学の意志があれば無条件で復学可能であるとしています。
大学生は大人であるという扱いをすること自体が今や難しくなりつつあるのかもしれません。
もちろんこれは教員の指導力を問い直す契機にもなります。
つまらない授業をなくし、生徒の興味をいかに引き出すのかという課題を教師もまた背負うことになるのです。
それにしても近年、学生の質は大きく変化していると言わざるを得ません。
これは進学率の上昇と当然深い関係があるでしょう。
社会全体から知的好奇心が急速に失われているのでしょうか。
若い世代が社会の変化を敏感に感じ取っているという可能性もあります。
AIの時代に入り、人間の可動域が少しずつ狭まっています。
今までのように記憶中心の授業をしていたのでは、新しい時代に対応できません。
問題があり、答えがあるといった方式の教育はもう終わりを迎えつつあります。
小学校の授業風景を見たことがありますか。
先生の質問に子供たちが熱心に手をあげて答えようとしていますね。
なんともほほえましいものです。
しかし高学年になるにつれ、挙手をする生徒の数はめっきり減っていきます。
中学、高校になるとほとんどいません。
つまり完全に日本型の授業になっていくのです。
先生のいう答えをとにかく覚える。
公式の形を記憶する。
今、最も避けなければならないタイプの授業形式なのです。
円周率3の時代
少し前に円周率が3になった時は本当に驚きました。
ゆとりといって授業のコマ数がどんどん減っていきました。
OECDの主導で行われている学習到達度調査PISAの得点も、日本人の読解能力が下がりつつあるのを明らかにしてしまいました。
弊害があまりにも多く、このゆとり教育の流れはあっという間に潰れてしまったのです。
こうした潮流の一方で私学の進学校などは授業時数を減らしませんでした。
むしろ内容をさらに高度にしようとしています。
公立との差は開いて行く一方なのです。
東京では都立高校改革の一環として学区制撤廃、自校作成の入試問題促進などを進めています。
先生の配置転換、新しいタイプの学校創設、特定の高校における土曜日の授業などという新しい試みを次々と展開しようとしているのです。
今や少子化の中で同じパイを私立と公立で奪い合っています。
これらの現実がどこへたどり着くのか、いまだにその着地点は見えていません。
都立高校では民間出身の校長を採用したりもしました。
経営感覚を導入したいという意図だったのでしょう。
しかし問題はそこで行われる教育そのものにあります。
陰湿なイジメもなくなっていません。
実体は背後に隠れてしまっているので、はっきりとは言えませんが、以前よりひどい状態になっているようです。
小学校の先生に聞いたところ、クラスの運営そのものが最近殊に難しいそうです。
1人でクラスを担当するために学級崩壊になる可能性もより強いのです。
ベテランの先生だからといって、うまくいくという保証はありません。
人間性を否定され疲れ切って退職してしまう教員もかなりいるのです。
過去の経験が全く機能しません。
親の世代も明らかに変質しています。
アメリカとの差
アメリカとの教育方法の違いについても多くの証言があります。
日本では大多数を同じようにし、アメリカでは個人の差を生み出す教育をするという点です。
授業中、手をあげる生徒の少ない日本と、9割以上が必ず手をあげるアメリカ。
日本の大学に入るより、高校時代からアメリカへ行ってしまった方がいいと決断する人々もいます。
大学を中心としたヒエラルキー社会が変わらない限り、小手先の改革では何も変化しないのかもしれません。
1度入学してしまうと勉強を放棄してしまう大学生の群像はその後の社会構造の反映なのです。
学歴賦与機関としての大学の機能は今急速に衰えています。
本当に学びたい人を囲い込むというより、就職の予備機関として、企業の選別システムの補助的な立場にいるのかもしれません。
大学にはフルイにかけてもらう作業までで十分。
あとは企業の側でやりますというのが就職担当者のホンネでしょう。
教育は今、嵐の中にいるのです。
世界標準は当然のように自分で問題を考える生徒を育てることを要求しています。
AIの時代に生き残れる資質をもった人材が欲しいのです。
YesNoを明確にできる人間です。
しかしあいまいな言語表現しか使わない日本人にとって論理を駆使した発言をきちんとすることは至難です。
さらにいえば、現代は映像の時代です。
言葉を使って抽象的な表現をすることが苦手な若者が多いのです。
彼らは複雑な文章を読まないのです。
したがって抽象的な思考に耐えられません。
想像力も十分に育っていないのです。
この船がどこへ向けて出帆しようとしているのか、誰にもまだその全体像は見えていません。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。