【美を求める心・小林秀雄】美しさがわかるとはどういう意味なのか

美を求める心

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は小林秀雄を取り上げましょう。

昔から入試などにはよく出る評論家ですね。

ぼくが都立高校の教員採用試験を受験した時も問1の課題文は小林秀雄でした。

彼の文章を理解するのは大変です。

とにかく難しい。

短い言葉の中に箴言にも似た表現が入っているのです。

それを論理的に解釈しようとすると、厄介です。

むしろ直感型の人の方がわかりやすいのかもしれません。

古典文学から美術、音楽などにいたるまで、その知識の範囲が非常に広いのです。

高校の教科書にも所収されているものがいくつかあります。

Aquamarine_song / Pixabay

「無常ということ」という評論を何度か授業で扱いました。

小林の評論を読んだ後は、大袈裟に言うと世界が違って見えます。

それまでの認識の方法と違う目を持つ必要があるからです。

文章は短く、内容は深いのです。

例えば「当麻」というエッセイの中にこんな言葉があります。

美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない。

私たちは、花の美などと抽象的な概念をもてあそぶことがあります。

しかし彼によればそんなものはないんですね。

そこにあるのはただ美しい1輪の花だけです。

それ以外にはないのです。

沈黙させる不思議

「美を求める心」には、いくつもの言葉があります。

このエッセイは、ある素朴な疑問から始まります。

絵や音楽はどう鑑賞したらよいのかという誰もが持つ考えです。

小林秀雄はそれに対して、実に真面目に答えています。

ご紹介しましょう。

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美には人を沈黙させる力があるのです。

これが美の持つ根本の力であり、根本の性質です。

絵や音楽が本当に解るという事は、こういう沈黙の力に堪える経験をよく味わう事に他なりません。

極端に言えば、絵や音楽を、解るとか解らないとかいうのが、もう間違っているのです。

絵は、眼で見て楽しむものだ。

音楽は、耳で聴いて感動するものだ。

頭で解るとか解らないとか言うべき筋のものではありますまい。

先ず、何を措いても、見ることです。聴くことです。

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ここまで言われてしまうと、もう何も言えません。

DarkWorkX / Pixabay

確かにすばらしい芸術は人を黙らせますね。

あまりに深く感動すると、言葉が出なくなります。

逆にいえば、そうでないものは平凡なものだということです。

彼は言います。

絵をみて、難解だ、簡単だ。といっているのは、ひとがそれに見慣れているかいないかの問題に過ぎないと。

見慣れてくれば、ひとはもう解らないとは言わないのです。

一輪の花を見て、その花の名前を呟いたとしましょう。

その瞬間に美しい花はその名前の中に消えていってしまうのです。

私たちはそこで言葉を失うという大切な経験をなくしてしまうのです。

実にもったいないことですね。

花を何気なしに見ていると、本当にどきっとする時があります。

先日も店先で売られているシクラメンに思わず見とれてしまいました。

あの形といい、色といい、花弁のつやといい、いったい誰の意志で生まれたものなのか、

つくづく感心してしまったのです。

神の仕業だと言ってしまえば、それまでのことですが、やはり造形の美という以外にはないと思います。

子供の頃、よく花の絵を描きました。

きまってチューリップだったような記憶があります。

あの当時のぼくにとって、チューリップは本当に美しい花でした。

その頃どんな眼で花をみていたのか。

それを今思い出すことはできません。

しかしきっと今よりはずっと澄んでいただろうと思われます。

多くの言葉を知ってから、ぼくの感受性は日増しに衰えてしまったような気さえします。

ところが時々ふっと子供の頃の感情が表面にあらわれてくることがあります。

瞬間にやってくるのです。

これは大きな驚きです。

それでつい見とれてしまうのでしょうか。

花はいつもその生命いっぱいに咲いています。

先日植え替えたばかりのパンジーやビオラも次々と株を増やし、太陽にその花びらを一心に向けています。

全ての花びらがみな同じ方向に向いているのを見て、つい微笑んでしまいました。

一途で可愛いものです。

自然の力

自然はみごとなものです。

汚れた泥の中から蓮は白や薄桃色の花を咲かせるのだと聞いたことがあります。

なぜ睡蓮というのかといえば、睡りながらいつ咲いたらいいのかを考え、季節になると急に朝目覚めるからだそうです。

花は本当に不思議です。

生命の営みはそれだけで美しいものです。

彼岸花のあの色に驚いたことはないでしょうか。

「つきぬけて天上の紺曼珠沙華」という山口誓子の句は空の青さと彼岸花の赤とを対照した名句です。

彼岸花の赤はこの世のものではありません。

人間がどうあがいてみても、創れる色ではないのです。

それにあの形の精妙なこと。

これもやはり大きな驚きです。

小林秀雄の文章を読んでいると、自分の経験に重なる部分があるのを強く感じます。

自然はちっとも難解ではありません。

むしろ複雑な芸術だと称して、理解しがたいものにしているのは人間の野望でしょう。

芸術家は難解であることをむしろ誇らしげに勲章にしようとします。

それは誤った方向性です。

音楽も美術もひたすら聞いたり見たりすることを重ねるしかありません。

それが美を求める心に通じるのでしょう。

芸術の魂はごく単純なものだと感じます。

言い換えれば対象に対する愛情です。

あふれるような愛情の量を感じた時、人は沈黙します。

それがごくありふれたものであっても少しも飽きないのです。

花をみて、綺麗だというのは簡単です。

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しかし、花の美しさに感じ入り、その感覚を愛情によって心に留めておくことは難しいのです。

小林秀雄の評論をぜひ手にとってみてください。

心に沁みる文章が次々と展開されています。

今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

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