清張ミステリー
みなさんこんにちは。
ブロガーのすい喬です。
毎日いろんな話を書いています。
書評もやりたいのですが、あんまり無理してもいけないので、可能な範囲でちょこちょことまとめていきます。
そのうち、記事数も増えていくのかな。
今日で48日目になりました。
塵も積もれば山になるの喩えもあります。
暢気にやっていきますね。
今回のテーマは作家、松本清張です。
今までに何冊の本を読んだかわかりません。
冊数でいえば、一番読んでいるような気もします。
それだけ多作な人です。
生涯に書いた原稿用紙の厚さは、いったいどれくらいなんでしょうか。
多くのミステリーの中でどれが一番面白いのかというのは、人によって様々だと思います。
![Photo by Skitterphoto ミステリー photo](https://suikyoblog.com/wp-content/uploads/2019/07/53e3d0414f53b114a6da8c7ccf203163143ad8e65b5775417c2e_640_ミステリー.jpg)
どれから読んだらいいのか。
これも難しいです。
それくらいたくさん書きました。
映画化されているもの。
テレビドラマになったもの。
その数も夥しいとしか言えません。
半生の記
松本清張を知りたかったら、まずミステリーの前に読む本はこれです。
これに尽きると考えます。
それくらいこの作家の横顔をよくあらわしています。
作家生活に入る前までが本当に詳しく書かれています。
よくこの境遇から這い上がったものだというのが、ぼくの読後感です。
どんどん彼の人生の中に没入していくのがよくわかりました。
周囲の人たちがみな中学校に入る中で、彼一人だけが小学校卒業後、貧しい両親のもとで暮らします。
その後朝日新聞広告部の嘱託版下職人として腕を磨き、結婚して3人の子供を抱え、両親と同居します。
やがて33歳で召集され、韓国で敗戦を迎えます。
帰国して、朝日新聞の社員でいながら内職の箒販売と卸の仕事で西日本中心の旅をします。
見本を持って関西方面や、空いた時間を使って京都や奈良、飛鳥の古い寺社を見学しました。
この時の見聞が後の清張文学にどれほど影響を与えたのかは、言うまでもありません。
古代史への関心もこの時以来、ますます強くなっていきます。
彼の小説には必ず地方の土地が登場します。
それが作品に厚みを与えているのは間違いありません。
1951年に書いた処女作『西郷札』が『週刊朝日』の三等に入選。
この作品は第25回直木賞候補となりました。
芥川賞受賞
翌年、『三田文学』に載せた「或る『小倉日記』伝」で第28回芥川賞を受賞。
ここから彼の作家人生が始まるのです。
40才半ばでした。
![Photo by 3dman_eu 受賞 photo](https://suikyoblog.com/wp-content/uploads/2019/07/57e0d4434353aa14ea898675c6203f78083edbe35059774c722e79_640_受賞.jpg)
この作品に登場する薄幸の人物は実在したということです。
身体の具合が悪いことで、社会に受けいれられず、しかしどこかで世の中を見返し、さらに認められたいとする願望が、主人公、田上耕作を鴎外研究に向かわせます。
口が満足にきけず歩行も困難な息子のために、母は渾身の力をこめて援助します。
息子だけしか、もう生きがいはありませんでした。
社会に認められず、それでも社会につながりたいとする人間はどのように生きていけばいいのか。
この短編集にはそうした満たされない人々の怨嗟の声が満ちています。
どの作品も読後感は暗いです。
学閥も閨閥も何ももたない人間はどのようにしたら、世俗的成功をおさめうるのか。
学芸や学問の世界の非情さもここには書き込まれています。
松本清張自身、尋常小学校しか出ていなかったために、社会に出てから辛酸をなめざるを得ませんでした。
それだけに世俗的に成功していくための苦しみをいやというほど味わうこの短編の登場人物たちに対して、筆者の熱い共感を感じます。
功なり名をとげた研究者が学界から転落していく話や、下積みの庶民の本当に苦しい生活も垣間見えます。
作家にとって、最初から恵まれた人たちは、まったく別世界の住人でした。
彼らになんとか一矢を報いたい。
それが彼の創造の源泉であったのです。
なかでも「父系の指」という小説の最後は劇的です。
こういう感情は、ある環境の中にいた人にしか理解できないものでしょう。
それだけに強烈なものがあります。
松本清張の真価ここにありというのが、まぎれもない読後感といえるのではないでしょうか。
まさに清張が置かれた立場を別の形で表現したものといえます。
読んでいても大変につらいです。
彼の生い立ちを知っていればいるほど、どういう気持ちでペンを握りしめていたのかを感じざるを得ません。
1955年、『張込み』という推理小説を書き始め、2年後雑誌『旅』に『点と線』を連載します。
この作品が今に至るまで、清張の小説の中では最も売れています。
『眼の壁』とともにベストセラーとなり「清張以前」「清張以後」という言葉も飛び出しました。
『ゼロの焦点』『かげろう絵図』『黒い画集』『歪んだ複写』などその後続々と出版。
個人的には最初に松本清張のミステリーを読むのならば『点と線』を勧めます。
点と線
松本清張の小説『点と線』は時刻表を縦横に使い切った作品の一つです。
『点と線』は映画化もされ、後に生誕100年を記念してテレビドラマにもなりました。
鹿児島本線、香椎駅から少し離れた海辺でおこる情死事件を扱ったものです。
福岡署の古参刑事、鳥飼重太郎と警視庁捜査二課の刑事、三原紀一が二人三脚で謎を追っていきます。
一見すると、自殺に見えるものの、そこになにか不自然な作為が見てとれました。
背景にはある省庁の汚職事件がからんでいます。
事件の全容を知っている課長補佐と、料亭の女という関係にも因縁がありそうです。
東京駅の15番線ホームから二人が特急あさかぜに乗るところを偶然目撃した人がいました。
同じ料亭で働いている女二人です。
13番線ホームから偶然、彼ら二人を見たのです。
たった4分の間に限って、こちら側のホームから全てが見渡せるという事実を知っている人物がいました。
犯人の一人、器具工具商、安田商会の社長安田辰郎です。
割烹料理店の女中二人にわざと東京駅まで送らせ、目撃証人に仕立てたのです。
後半は犯行当日、商用で北海道に出かけていたという安田のアリバイを崩すところが最大のポイントです。
![Photo by stux 殺人事件 photo](https://suikyoblog.com/wp-content/uploads/2019/07/53e2d04a425ab114a6da8c7ccf203163143ad8e65b5774407c2e_640_殺人事件.jpg)
アリバイとはalibiと書きます。英語です。
現場不在証明というのがその意味です。
被疑者が犯行時間に現場以外の場所にいたという事実をさします。
語源はもとラテン語で、alius ibi。
刑事たちは最初列車の時刻だけを気にしていますが、やがて飛行機の存在に眼がいきます。
そこから一気に話が解決していくのです。
当時、飛行機を利用するということは、通常考えられないことだったに違いありません。
刑事たちの生活感覚からは、あまりにも遠すぎたのです。
丸1日かけて九州へ、北海道へと出かけていった時代の話です。
青函連絡船の乗客名簿偽造もトリックに使われます。
時代背景がとにかく古い。
人間というカオス
結核で長く病に臥せっていた安田の妻が、時刻表に親しんでいたというのがこの小説の伏線です。
夫婦の愛情が哀しい結末を生み出したと言えるのかもしれません。
この作品で松本清張は何を描きたかったのでしょうか。
多くの批評はトリックの部分が前面に出すぎている気もします。
![Photo by Pexels 愛情 photo](https://suikyoblog.com/wp-content/uploads/2019/07/57e8d0404c57ac14ea898675c6203f78083edbe35059774f742972_640_愛情.jpg)
本当は夫婦の間に横たわる微妙な愛の形が、次の犯罪を生み出したともいえます。
それは彼の代表作ともいわれる『砂の器』にも見て取れます。
自分の出生の秘密を知っているかつての警察官を蒲田の操車場で殺してしまう主人公の作曲家の中に何があったのか。
あまりにもやさしく自分を受け入れてくれた警察官だけにはみせたくなかった、もう1人の自分。
まさに人間というカオスの中に生きる愛憎がみごとに描写されています。
この小説はかつて野村芳太郎監督によって映画化されました。
ぼくの実感としては、海岸をさすらう幼い頃の作曲家と警察官の残影が印象深く、小説の中に出てくる高周波を使ったトリックは不十分なものと感じます。
松本清張の作品はそのほとんどが映画化されています。
「天城越え」「張り込み」「点と線」「眼の壁」「ゼロの焦点」などどれもがすばらしいです。
さらにかつてNHKでテレビドラマ化された和田勉脚色「けものみち」や数年前に放送された「黒革の手帖」など、枚挙にいとまがありません。
どの作品から読んでもいいです。
それが松本清張です。
現在に至るまで何度もリニューアルされ、放送されるというのは、並々のことではありません。
彼の持っている現代性はまさに人間の深部に宿っているカオスの表現そのものだと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。