【清光館哀史・柳田國男】生の苦痛と熱狂を秘めた歌垣が鎮魂歌になる夜

清光館哀史

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

柳田國男の作り上げた民俗学は長い間、日本の思想の根幹を揺るがしてきました。

多くの評論家が彼のフィールドワークを内側にとりこんでいったのです。

彼は明治41(1908)年から民俗学の研究を始め、明治43(1910)年には代表作『遠野物語』を著しました

どんな人物なのかは、少し調べてみればよくわかります。

大きな存在の人だったことがよく理解できます。

すぐれた評論を読むと、必ず柳田國男にぶつかります。

一例をあげるならば、吉本隆明の『共同幻想論』などに挑戦してみることです。

柳田の『遠野物語』は多くの人に影響を与えました。

タイトル名を聞いたことがあるという人が多くいるはずです。

岩手県遠野に古くから伝承されてきた民話をもとにして、日本人の生き方の根本的な考え方の存在を論じた作品です。

民話のふるさとといえば、岩手県遠野が出てくるのは、この著書の影響がいかに強いかを示しています。

その後、彼は次々と民間の伝承をまとめ、膨大な量の著書を残しました。

今回はたくさんの著書の中から、筑摩版の高校『現代文』に長い間所収されてきた「清光館哀史」を取り上げます。

EliasSch / Pixabay

ぼくは残念なことに、この作品を授業で扱ったことがありません。

たまたま機会がなかったとしか言いようがないのです。

今までに、何度も読みかえしました。

長い作品ではありません。

『雪国の春』という著書の中に収められた「浜の月夜」がそれです。

青空文庫にも入っているので、ぜひ触れてみてください。

しかし実際、この文章を授業でやるとなると、どう取りあげたらいいのか、悩んでしまいます。

かなりの力量を要求される教材ですね。

雪国の春

これから読む「浜の月夜」は、大正9年、朝日新聞に連載され、後日談である「清光館哀史」は大正15年、『文藝春秋』に収められました。

最終的に『雪国の春』としてまとめられたのは昭和3年です。

全文をここに掲載したいのですが、それは無理です。

ぜひ、ご自身で試してみてください。

ところで、人はなぜ旅にでるのでしょうか。

その形も以前とは大きくかわってしまいました。

柳田國男が岩手県九戸郡にある古びた小さな宿に泊まって感じたことは、何だったのか。

それを今という時代の言葉で判断するのは、かなり難しいことです。

現代からは抒情というものが、消えつつあるのかもしれません。

柳田國男は詩人でした。

その魂が何かに触れたのでしょうね。

浜の月夜

あんまりくたびれた、もう泊まろうではないかと、小子内(おこない)の漁村にただ一軒ある宿屋の、清光館と称しながら西の丘に面して、わずかに四枚の障子を立てた二階に上がり込むと、はたして古くかつ黒い家だったが、若い亭主と母と女房の、親切は予想以上であった。

まず息を切らせて拭き掃除をしてくれる。

今夜は初めて帰る仏さまもあるらしいのに、しきりにわれわれに食わす魚のないことばかりを歎息している。

そう気をもまれてはかえって困ると言って、ごろりと囲炉裏のほうを枕に、臂を曲げて寝ころぶと、外は蝙蝠も飛ばない静かな黄昏である。

小川が一筋あって板橋がかかっている。

その板橋をからからと鳴らして、子供たちがおいおい渡って行く。

小子内では踊りはどうかね。

はア今に踊ります。

去年よりははずむそうで、といっているうちに橋向こうから、東京などの普請場で聞くような、女の声がしだいに高く響いてくる。

月がところどころの板屋に照っている。雲の少しある晩だ。

五十軒ばかりの村だというが、道の端には十二、三戸しか見えぬ。

橋から一町も行かぬ間に、大塚かと思うような孤立した砂山に突き当たり、左へ曲がって八木の湊へ越える坂になる。

曲がり角の右手に共同の井戸があり、その前の街道で踊っているのである。

太鼓も笛もない。

寂しい踊りだなと思って見たが、ほぼこれが総勢であったろう。

後からきて加わる者が、ほんの二人か三人ずつで、すこし永く立って見ている者は、踊りの輪の中から誰かが手を出して、ひょいと列の中に引っぱり込んでしまう。

次の一巡りの時にはもうその子も一心に踊っている。

この辺では踊るのは女ばかりで、男は見物の役である。

それも出稼ぎからまだもどらぬのか、見せたいだろうに腕組でもして見入っている者は、われわれを加えても二十人とはなかった。

小さいのを負ぶったもう爺が、井戸の脇からもっと歌えなどとわめいている。

どの村でも理想的の鑑賞家は、踊りの輪の中心に入って見るものだがそれが小子内では十二、三までの男の子だけで、同じ年ごろの小娘なら、皆列に加わってせっせと踊っている。

この地方ではちご輪見たような髪が学校の娘の髪だ。

それが上手に拍子を合わせていると、踊らぬ婆さんたちが後から、首をつかまえてどこの子だかと顔を見たりなんぞする。

われわれにはどうせ誰だかわからぬが、本踊子の一様に白い手拭で顔を隠しているのが、やはり大きな興味であった。

これが流行か帯も足袋も揃いの真白で、ほんの二、三人の外は皆新しい下駄だ。

前掛は昔からの紺無地だが、今年初めてこれに金紙で、家の紋や船印を貼り付けることにしたという。

奨励の趣旨が徹底したものか、近所近郷の金紙が品切れになって、それでもまだ候補生までには行き渡らぬために、かわいい憤懣がみなぎっているという話だ。

月がさすとこんな装飾が皆光ったり翳ったり、ほんとうに盆は月送りではだめだと思った。

一つの楽器もなくとも踊りは目の音楽である。

四周が閑静なだけにすぐに揃って、そうしてしゅんでくる。

それにあの大きな女の声のいいことはどうだ。

自分でも確信があるのだぜ。一人だけ見たまえ手拭なしの草履だ。

何て歌うのか文句を聞いていこうと、そこら中の見物と対談してみたがいずれも笑っていて教えてくれぬ。

中には知りませんといって立ち退く青年もあった。

結局手帖を空しくしてもどって寝たが、何でもごく短い発句ほどなのが三通りあって、それを高く低くくりかえして、夜半までも歌うらしかった。(以下略)

清光館の没落

柳田國男はその6年後に偶然、この宿を訪れることになりました。

しかしその家は影も形もなかったのです。

旧盆の8月15日の夜、村の女の人たちは月明りの中、踊り続けたのです。

その場所にはもう何もありませんでした。

清光館は没落したのです。

主人は暴風雨の日に沖で遭難し、一家は離散したとのことでした。

この宿に泊まった時、もっとも気になったのが踊っているときの彼女たちの歌の文句です。

その時はほとんど聞き取れなかったので、ずっと気になっていたのです。

それが6年後に明らかになりました。

なにヤとやーれ
なにヤとなされのう

何なりともしてください、どうなりとなさるがよいと、男に向かって呼びかけた恋の歌だったのです

日本に昔からあったと言われる「歌垣」の一種でした。

歌垣とは古代、男女が山や市などに集まって飲食や舞踏をしたり、掛け合いで歌を歌ったりして求婚をしあった風習のことです。

元々は農耕の儀礼でした。

その話を聞いた時、想像していたことが間違っていなかったことを柳田は確信します。

あまりに言葉が古く単調なためか、土地に生まれた人でもこの意味がわからなかったのです。

なぜこのような歌を歌って踊りを踊ったのか。

それも楽器をかなでることもしないで。

ここに彼の想像力が結集します。

読者にとっては、ここの文書が最も深い感動を誘うでしょうね。

彼はなんと書いたのか。

日ごと繰り返されるきつい労働と、やるせない生存の痛苦があればこそ、束の間の盆踊りに女たちは熱中し、翌日はまた踊ったことなどなかったかのように、仕事に精を出すのだ。

痛みがあればこそバルサム(鎮痛剤)は存在する。

柳田の推論はこの一点に凝縮します。

なぜ、楽器もなしにただ歌にあわせて、一晩中、踊りを舞ったのか。

そこに人のやるせない哀しみを感じます。

このような祭りは各地にありますね。

越中おわら風の盆などもその1つかもしれません。

編み笠で顔を隠して、ただひたすら踊ります。

あの祭りには三味線と胡弓の音が物悲しく響きます。

どうやったら、この教材の意味を生徒に伝えられるのか。

その難しさだけが残ります。

このような文章が今の時代に合っているとはとても思えません。

しかしだからこそ、この時間感覚が貴重なのではないでしょうか。

是非、一読をお勧めしたい作品です。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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