【丹波に出雲といふ所あり】早合点は誰にでもあるもの【徒然草】

人間の愚かしさ

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

『徒然草』という随筆はあとから効いてきますね。

授業で何度やったかわかりません。

とにかくいろいろな章段を扱いました。

このサイトにもかなり紹介しています。

しみじみとした内容のものがあるかと思えば、警句に満ちたちょっとヒヤリとさせられるものもあります。

人間観察の鋭さが、行間に満ち溢れているのです。

兼好法師は怖い人です。

ニヤッと笑いながら、こちらが気を許した瞬間に、すっと入り込んできます。

誠に油断のならない人です。

『徒然草』がこれだけ長い間、多くの人に読まれてきた理由が、そのあたりにあるのではないでしょうか。

思わず笑ってしまってから、自分も全くおんなじだとつい反省をさせられます。

今回の段もまさにそれです。

人間の愚かしさを兼好はバカにしているワケではありません。

誰だって、これくらいのことはあるよとむしろ優しく気を遣ってくれているのです。

人の振り見て我が振りなおせ、という諺がありますね。

まさにあれと同じパターンです。

早とちりというだけではない、人間に宿る根本的なテーマなのではないでしょうか。

世間で偉いと言われている人がいうのだから、間違いはないだろうとつい信じてしまうという構図もよくあります。

コマーシャルに、有名人がでているだけで、簡単に信用してしまう悲しさとでもいうのでしょうか。

高校時代に必ず習う愉快な段です。

声に出して読んでみてください。

本文

丹波に出雲といふ所あり。

大社を移して、めでたく造れり。

しだの某とかやしる所なれば、秋の比、聖海上人、その他も人数多誘ひて、「いざ給へ、出雲拝みに。かいもちひ召させん」とて具しもて行きたるに、各々拝みて、ゆゝしく信起したり。

御前なる獅子、狛犬、背きて、後ろさまに立ちたりければ、上人、いみじく感じて、「あなめでたや。この獅子の立ち様、いとめづらし。深き故あらん」と涙ぐみて、

「いかに殿原、殊勝の事は御覧じ咎めずや。無下なり」と言へば、各々怪しみて、「まことに他に異なりけり」、「都のつとに語らん」など言ふに、

上人、なほゆかしがりて、おとなしく、物知りぬべき顔したる神官を呼びて、「この御社の獅子の立てられ様、定めて習ひある事に侍らん。ちと承らばや」と言はれければ、

「その事に候ふ。さがなき童どもの仕りける、奇怪に候う事なり」とて、さし寄りて、据ゑ直して、去にければ、上人の感涙いたづらになりにけり。

現代語訳

丹波に出雲というところがあります。

島根の出雲大社から神様を分け移して、立派に築かれています。

このあたりは、しだの何某という人が治めているところなので、秋頃に聖海上人や、その他多くの人を誘い、

「さあいらっしゃい、出雲神社を拝みに。ついでにぼたもちもご馳走しましょう。」

といって、連れて行きました。

招かれた人たちは各々に拝んで、とても信仰心を起こしたのです。

社殿の御前にある獅子と狛犬が、背中を向けて、後ろ向きに立っていたのを見て、上人はとても感激しました。

「ああ、素晴らしいことだ。この獅子の立ち方はとても珍しい。深いわけがあるのだろう。」と涙ぐんだりもしたのです。

「ちょっとみなさん、狛犬らの置かれ方のありがたいことには御覧になって不思議にお思いにならないですか。まったくすばらしい。」

と言うので、一緒に参拝していた人たちも各々不思議に思って「本当に他と異なっていますね。都への土産話に語りましょう。」などと言っていました

qimono / Pixabay

上人はさらにワケを知りたいと思って、年配でものを知っていそうな神官を呼びました。

「この神社の獅子の立てられ方は、きっと由緒があることでございましょう。ちょっとお聞かせ願いたいものです。」

そう言ったところ、神官は、「そのことでございます。いたずらな子どもたちがまたやったんですよ、本当にけしからんことでございます。」

と言いながら、獅子に近づいて向きを元のように戻して、行ってしまいました。

結局、上人の涙は無駄になってしまったということです。

上人の感涙

これは京都の亀岡の話です。

出雲大社の分霊を祀った立派な神社です。

そこが志田の何某とかいう人の領地だったのでしょう。

秋になり「どうぞ出雲にお参り下さい。ぼたもちをご馳走しましょう」と言って、聖海上人の他、大勢を連れ出したのです。

かいもちひというのは「ぼたもち」とか「そばがき」のことをさすようです。

昔はかなり頻繁に食べられていました。

ここからがこの話の真骨頂ですね。

神前にある魔除けの獅子と狛犬についてはあまり細かく説明しなくても、わかると思います。

狛犬というの獅子に似た日本の獣です。

本殿や本堂の正面左右などに一対で向き合う形が普通ですね。

寺社に背を向け、参拝者と向き合う形で置かれる事が多いようです。

無角の獅子と有角の狛犬とが一対とされます。

通常は向き合っているというところが、この話のポイントです。

この時は後ろを向いて背中合わせに立っていました。

そこで聖海上人は非常に感動したのです。

この獅子の立ち方は尋常ではない。

何か深い由縁があるに違いないと、一人で感涙にむせんだというワケです。

さらに一緒に見物にきた人たちに同意を求めます。

皆さん、このありがたいお姿を見て涙がでませんか。

私などは感激で涙がとまりませんと、熱心に語りました。

それを聞いて、上人様がおっしゃるのだから、確かにありがたいに違いないと思ったのでしょう。

本当に不思議な獅子だ、狛犬だ。

都に帰って土産話にしようということになりました。

よせばいいのに、上人はこの獅子と狛犬の置き方について、もっと詳しく知ろうとしたのです。

ここからが笑い話ですね。

年配のいかにも詳しく知っていそうな神主をわざわざ呼びとめます。

この神社の獅子の立ち方には、計り知れない由縁があるのでしょうか。

是非教えて下さいと質問したのです。

神主の台詞がしゃれてますね。

近所の悪ガキがまた悪さをしたんですよ。

ホントに困ったガキどもだ。

そう言いながら、向きを元に戻して立ち去ったというワケです。

兼好は上人をバカにしてこの話を書いたのでしょうか。

それはあまりにも単純な理解です。

もっともっと深い彼独自の解釈があったのでしょう。

一言でいえば、人の愚かさとそれに対する愛着ですかね。

誰もが同じよう憎めない一面を持っています。

晩さん会でフィンガーボールの水を飲んだら、次の人も飲んだという笑い話や、落語には「茶の湯」という笑うに笑えない愉快な噺もあります。

人間の可愛らしさとでもいったらいいのでしょう。

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兼好が生きていたら、現代の私たちをみて、なんというのでしょうか。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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