閾値(しきいち)
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回はあまり聞いたことのない難しい表現の話をします。
ズバリ、閾値(しきいち)です。
どこかで聞いたことがありますか。
難しい言葉です。
最近よく見かけるようになりました。
しきい値と書くケースもあります
生物学の表現らしいのです。
ある刺激によってある反応が起こる時、刺激がある値以上に強くなければ、その反応は起こらない。
その限界値のことと辞書にはあります。
これだけでなんのことかわかりますか。
つまり生物がある反応を始めるその寸前の値のことを言うのです。
例えば痛みを感じるという行動は、ある地点を超えてはじめて表現されます。
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蚊にさされるのも同じ理屈です。
蚊は血を吸う時に、口の先の針から唾液を出します。
この唾液には血がかたまらないようにする作用があるのです。
これによって人の身体にアレルギー反応が起きます。
さされた部分が突然痒くなるのです。
ところが途中でたたいて殺したりしちゃうと、もっと痒くなるのを知っていますか。
蚊はおなかいっぱい血を吸うと、出した唾液をほとんど吸い戻すのです。
つまりあんまり痒くなりません。
人間の側からみれば、アレルギー反応が鈍くなるというワケです。
これが閾値です。
ここまで唾液が身体の中に入ると痒いという、そのギリギリの数値です。
しきい値という言葉を忘れないでください。
日常生活
さて、このことがぼくたちの日常生活にどんな意味を持つのか。
例えば、こんなものがあればいいなあ、とイメージを浮かべたとしましょう。
いつも通勤電車の中でテレビがみたいとします。
そんなの今はあたりまえですね。
以前なら夢でした。
しかし今はスマホがあります。
電話だってそうです。
いちいち公衆電話を探す手間は大変でした。
![](https://suikyoblog.com/wp-content/uploads/2022/06/undraw_Outdoor_adventure_re_j3b7-1024x691.png)
やっとみつけても、誰かが先に話していたら、待っていなければなりませんでした。
それが今はどうでしょう。
そんなことはあり得ません。
歩きながら、電話ができるのです。
メールだって、ラインだって似たようなもんです。
待ち合わせの場所というものが消えてしまいました。
簡単にいえば、どこにいてもいいのです。
優雅にコーヒーを飲みながら、涼しい場所でくつろいでいたってかまいません。
スマホができたことで、人間は待つことをしなくなりました。
テレビだってyoutubeだって見られるのです。
そのコンテンツが手に入る時間まで我慢する必要がありません。
人間から忍耐の文字が急速に消えてしまいました。
全てオンデマンドの時代です。
閾値がかわったのです。
欲しくて仕方がない
過去にはじっと我慢をして、お金をため、欲しいものを手に入れるという消費行動がありました。
お年玉をためて、ずっと欲しかったものを手にする。
その喜びは何にもかえがたいものだったのです。
ところが今は現金がなくても、ものが買える時代です。
クレジットの思想は我慢という概念をなくしてしまいました。
どうしても欲しくて欲しくて仕方がないと感じる以前に、あるメーカーはそうした商品を先取りして売り出してしまいます。
それを買う手段さえもが、作り出されてしまうのです。
技術を集め、新製品が毎日のように売り出されます。
スマホのラッシュにはうんざりです。
どこが違うのか、ちっともわからない。
最初は単体で、そのうち機能を複合的にかき集め、全く今までにない商品が生まれていきます。
そういう意味で、やはり携帯電話は画期的でしたね。
ワンセグという技術があったことなど、今では大半の人が知りません。
ここがどこか知りたい。
自分の今いる場所が明確になればいいというニーズがあるとしましょう。
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するとメーカーはGPS機能をスマホに繰り入れました。
ラジオもテレビも時計もカメラも、みんな一緒にしてしまったのです。
確かにカメラを持っている人の姿が減りました。
大手メーカーが一眼レフの販売をやめるというところまできてしまったのです。
電車にのる時間も乗り換え方法も、全部スマホが教えてくれます。
道順だってお手の物なのです。
このように、ぼくたちが本当に欲しいと思う以前に、誰かがもうそれを作り出して現実のものにしてしまいました。
思いつめる前に
するとどうなるのか。
十分に欲しいと思い詰める(閾値に到達する)以前に自分の手元にあらゆるものがもたらされるということになります。
本当に欲しいと思うことがばからしい気さえするのです。
さらにバーチャルなものは常にリセットが可能です。
そこでは命さえもが、すぐに再生可能なのです。
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つまり我慢は全く必要ありません。
すぐに復活するからです。
閾値が高まりを見せる以前に、あらゆるものがぼくたちの前にあらわれる時代になりました。
このことはある意味で、すばらしいことなのかもしれません。
しかし同時に悲しいことにもなり得ます。
閾値に到達するまで寒風にさらされるという体験を、誰もが持てなくなりました。
人は今、大きな試練の場に立たされ続けています。
これからぼくたちはどこへ向かって進むのでしょう。
今の若者を見ていると、どことなくひ弱い印象を受けます。
なにも我慢することなく、手に入れてきたからなのです。
忍耐力のなくなった若者達をやさしい集団とみるのか、打たれ弱い人たちの群れとみるのか。
これはある意味で、未来への大きな分岐点といえるのかもしれません。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。