世の中、不思議なことばかり
みなさん、こんにちは。
ブロガーのすい喬です。
毎日コロナのニュースばかりで、いささかうんざりしています。
10年後には本当にただの風邪になるんでしょうか。
笑い話で終わるといいんですけど。
ワクチンが効いて、特効薬が完全にできるまでは当分ビクビクしながら暮らさなければならないでしょうね。
いい加減マスク生活にもくたびれてきました。
遠出をせず、家にじっと引きこもっています。
よく考えてみると、世の中には不思議なことがたくさんあります。
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当たり前に暮らしている時はあまり気にもとめません。
しかし時々ふっとこれはどうしてだろうと考え始めると、首をかしげてしまうことがあるものです。
そんな時、文化人類学という学問が解決の糸口をくれたりするのです。
文化人類学や民俗学という言葉は聞いたことがありますよね。
しかし現実に何をやってるのかはよくわかりません。
実に不思議な学問です。
すごく日々の暮らしの近くにあるのです。
ぼく達が当たり前に過ごしている日常生活にずかずかと入り込んできて、なぜこれはこうなのと訊ねるのです。
考えてみると、これほど妙な学問はありません。
あんまり当たり前すぎて、だれも疑問に思わないことをあえて問うのです。
その典型的な例がお箸とお茶碗の話です。
お箸とお茶碗
例をあげてみましょう。
例えばどこの家でもたいていお箸とお茶碗は1人1人決まっていますね。
お父さんのお茶碗にお母さんのお箸。
たとえ家族でも他の人のお箸を使うとなんとなく気持ちが悪いものです。
時には怒り出す人がいるかもしれません。
もちろんお茶碗も同様です。
しかしこれがカレーライスを食べるためのお皿やスプーンとなるとどうでしょう。
誰のスプーンか決まっている家も勿論あるかもしれません。
しかしみんな同じで決まっていないという家も多いのです。
たいていは不特定多数で共有しているのではないでしょうか。
きっと使う時に端から順番に使っていくのが普通でしょう。
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この差はいったいどこからくるのか。
考え出すと実に不思議です。
お箸はあんなに気持ちが悪いというのに、スプーンは平気なんです。
しかし毎日そんなことで悩んでいる人はいません。
ごく当たり前に暮らしています。
しかし文化人類学や民俗学の手にかかると、これが恰好の材料になるのです。
お皿とお茶椀はその意味の構造がどう違うのか。
スプーンとお箸はどこが違うのか。
その歴史的背景にせまっていくのです。
こんなことは誰も考えません。
話題にもならないのです。
しかしよく考えてみると、確かにカレーライスを食べる時のお皿も決まっていません。
順番によそってます。
なぜか。
食器を割る
話は一気に飛びます。
お葬式の時の儀礼です。
今はあまりここまでやる家も少なくなりました。
というのも斎場がきちんと整備されてきたからです。
以前はお葬式を家でしました。
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その時の様子を覚えていたら思い出してください。
出棺の時などに、故人の使っていた茶碗を割るという風習がかつてありました。
現在も残っている地方があるかもしれません。
玄関の前にお茶碗を置いてそれを割るのです。
その理由を文化人類学や民俗学では魂の問題として、さらに米文化の名残りと理解しています。
いわゆる洋食器と呼ばれるものに対して持つ感情と、米を盛る食器とは全く別の次元にあると考えるのです。
つまりお米を毎日食べていた食器には、故人の魂が宿っていると捉えます。
それを玄関で断ち切る。
もう帰る場所ではなくなったという行為なのです。
そういわれてみると、なるほどそんな気がしてきます。
西洋料理のお皿にはそこまでの親しみが湧きません。
スプーンも同様です。
しかしお箸をご飯に立てて仏前に備えるという構図は今もあります。
これもまさに非日常の図式なのです。
現在は食器を割って出棺するという家はもうほとんどないでしょうね。
しかし別の形で死者の魂に別れを告げる儀式はいろいろと形をかえて残っているのです。
文化人類学が特に儀式を重視するのは、そこに民族の考え方の根本が宿っているからです。
グローバル化の時代になって、それもやがて消えていくのでしょうか。
お返しの文化
お中元やお歳暮という風習も、考えてみれば不思議なものです。
そこにはつねに「お返し」という発想がついてまわります。
日本人はすぐにものをもらうと、それとほぼ等しい価値のものを送り返そうとします。
いまでもわずかに残っている風習の1つに結納がありますね。
女性側はもらった額の半分を袴料として男性側に返すのが普通です。
それならば最初から半分にすれば合理的ですが、それはしません。
こういう風習はどこの国にもあるワケではありません。
ところがカナダ・インディアンの中には「ポトラッチ」と呼ばれる風習を持つ部族があります。
これは相手の前で自分たちが大切にしているものを燃やしたりして、敵意がないことを示すのだそうです。
たいていは毛布などの防寒具、時には家畜もその中に入るといいます。
相手も同様に大切なものをわざと失います。
このような例はお中元、お歳暮などとよく比較検討されるようです。
贈り物をすることにより、相手にある種の威圧感を与えるのです。
自分を優位にするか、あるいは相手とよりよいコミュニケーションをつくるためと解釈されています。
高層ビルの起工式などで神主を呼び、お祓いをする風景も考えてみれば不思議です。
なぜこれだけ合理主義の進んだ時代に、謎めいた行動をとるのか。
答えはなかなか出そうもありません。
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アフリカで広く行われている呪術も馬鹿にはできません。
日本でもやはり同じようなことを行っているのです。
実際アフリカへ行った時、動物の骨を玄関の前に置かれるという呪術の品物を見たことがあります。
これをされると、その家に死者が出ると本当に信じられています。
学問のある教養の高い人でも信じているのです。
日本でもそうですね。
友引の日にはお葬式をしないとか。
仏滅の日に結婚式をしないなどいう考えは、ほとんどの人が守っています。
なぜか。
よく考えると、これも実に不思議です。
そういう日々の生活にまつわる謎に文化人類学や民俗学はメスを入れます。
アフリカなどで実地に彼らと暮らし、フィールドワークを続けるのです。
その儀式の根底にある思想が、別の民族にもみられるからです。
学問の面白さというのは、研究し始めるとやむことがありません。
興味があったら少し本を読んでみてください。
最後までおつきあいいただきありがとうございました。