【日本文化・能】ひたすらに型を会得することで思いの深さを表現する

ノート

日本文化、能

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は能の話をします。

能楽師、安田登のエッセイ『神話する身体』を参考にします。

ご存知ですか。

下掛流宝生流のワキ方として現在活躍している人です。

能に関して多くの本を書いています。

ワキ方というのは主役であるシテ方の相手役のことを言います。

面はつけません。

ワキは現実に生きている人物であり、観客と同じ立場に置かれているからです。

通常は旅の僧などを演じることが多いです。

物語の進行役と考えればいいでしょう。

演目によっては、亡霊や怨霊として登場するシテ方と戦うことなどもあります。

ワキ方は一生この役割を引き受けるのです。

あなたは能を見たことがあるでしょうか。

理解するのが非常に難しいと思われている芸能の1つですね。

学校の鑑賞教室で接するくらいで、自分で能楽堂へ行ったという人はほとんどいないかもしれません。

しかし日本の伝統文化を知るには最適の芸能だと思います。

古典に対する理解力も当然必要です。

しかしそれは自然に養われていきます。

それよりも人間の身体に関わる考え方が、西洋の演劇とここまで違うのかといったことに衝撃をうけるのではないでしょうか。

彼のエッセイの中に、稽古の仕方について書かれた一節があります。

ご紹介しましょう。

稽古の違い

能も新劇も演劇と言われているが、新劇の俳優さんと一緒にやっていると、その相似点よりも相違点の多さに驚く。

たとえば新劇の人は舞台が始まる数時間前から柔軟体操をしたり、気持ちを集中させたりと準備に余念がない。

それに対して能楽師は舞台前に発声練習すらしない。

新劇の人は作品の解釈をしっかりとするが、能の方はあまりしない。

一緒にやってると自分がいい加減のようで心苦しいのだが、しかしこれは入門時の稽古自体から違っているのだから仕方がない。(中略)

マネをする、これが能の稽古の基本で稽古メソッドなどというものは特にない。

それに対して近代演劇は様々なメソッドを生み出した。

たとえばメソッド演技というものがある。

悲しい場面の演技では、自分の体験の中から悲しい出来事を思い出す。

これがうまくいくと、本当に涙が流れたりする。すごい。

ただしこのメソッドには欠点が2つある。

ひとつはその役者の人生経験が演技の質を左右してしまうこと。

383961 / Pixabay

そしてもうひとつは、自分の人生経験以上の演技はできないということだ。

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ここまで読んでみてどう思いますか。

この本は能の本質についてかなり詳しく述べたエッセイです。

冒頭のところにある稽古の仕方の差には驚きますね。

新劇との比較は実に明快です。

稽古の仕方がここまで違うのはなぜでしょうか。

新劇の場合には近代演劇のメソッドがあります。

基本はスタニスラフスキーシステムと呼ばれるものです。

日本では築地小劇場の時代から、この方法を取り入れてきました。

しかし能という演劇には全く使われていません。

それだけに比較をすると実に面白いのです。

能の修行

能の稽古には逆に言えばメソッドはありません。

稽古というよりも修行と呼ぶ方がふさわしいのではないでしょうか。

会得するのはただひたすら型と呼ばれるものです。

足の運び方、手の開き方、腰の重心。

たった数歩の動きを身につけるために修行を続けるのです。

なかでも「道成寺」の乱拍子は、かなり特徴的な動きのある舞です。

小鼓との間合いだけでほんのわずか足先を上げたり引いたりします。

まさに究極の型ですね。

ほとんど動きません。

15分間ぐらいでしょうか。

緊張感に満ちた時間です。

過去に演じられた型をかえることは許されません。

先人たちが舞ったのと同じ動きが要求されます。

白拍子が特殊な足遣いで舞い続けるのです。

恨みの籠った鐘を目指して進む様子を表現しているとされます。

寺の石段を一段一段登っていくのです。

小鼓と間に笛が入ります。

「道成寺」は人気演目の1つですが、恨みをどのように表現するのかということについては型以外には頼るものがないのです。

しかしそこにはおのずと「思い」が伝わります。

けっして演者の心の内部にメソッドで学んだ恨みをあらわしているワケではありません。

「道成寺」はその昔ある山伏に恋した女が、裏切られたと思い込んだところから始まります。

山伏はこの寺の鐘に逃げ隠れますが、女は恨み続け蛇となります。

僧たちが祈祷を続けます。

やがて中から蛇となった女が現れるのです。

僧たちの法力で蛇は日高川のへと姿を消していきます。

人間の恨みの激しさをこれでもかと見せる能です。

こころと思い

安田登はそれぞれの作品において、こころの中身は変化すると指摘しています。

しかしそのこころを生み出す「思い」はいくつになってもなくならないというのです。

たとえば「寂しさ」の感情を考えてみましょう。

どのような環境にあっても、若いときも年老いても、人の「思い」の中にある「寂しさ」の気持ちは誰にでもあるというのです。

「思い」は演者の個人的な体験などを超越しています。

人ならば誰もが持つ気持ちです。

それはメソッドでは表現できない。

それを支えるものが「型」だというのです。

能の凄さは言葉にはできないある思いを封じ込めて冷凍保存したところにあるのかもしれません。

それが舞台を見た時に溶けてでてくるのです。

私たちの身体の持つ不思議な力によって目覚めるのです。

能役者たちは現代に身体を使って神話を読み直してみています。

個人的な過去の経験がどうのこうのということは必要ありません。

解釈すらほとんどしないのです。

ただ身体の動きを教えられ、師と同じように舞ってみる。

本番の舞台だからといって解釈をしたり気持ちを入れたりはしません。

稽古された通りの型を稽古された通りに忠実に再現していきます。

その時に凍結されていた神話が突然立ち上がってくると考えるのが自然でしょう。

日本の文化には茶道、生け花、武道などさまざまなものがあります。

同じような側面をみてとることができるのではないでしょうか。

今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

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