【子供と玩具】遊びの本質はどこにあるのかを考える【想像力の価値】

学び

子供と玩具

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回はおもちゃの話を少しします。

玩具ですね。

澁澤龍彦の「玩具のシンボル価値」というエッセイを参考にして考えてみたいと思います。

彼のことを御存知ですか。

小説家、フランス文学者、評論家です。

ぼくの好きな本に『高丘親王航海記』があります。

サドの研究家としても知られていますね。

ここでは遊びの本質について探ってみます。

遊びというのはもともと大変自由なものです。

子供は黙っていても楽しければ遊ぶし、楽しくなければすぐにやめてしまいます。

玩具といって1番最初に思い出されるのは何でしょうか。

戦前から戦後にかけてなら、ビー玉、おはじき、人形、ベーゴマなどといくらでもありました。

最近ではどうですか。

なんといってもテレビゲームでしょうね。

倒産しかかった会社を一躍立て直してしまうほどの威力があります。

とにかく人気のゲーム機の売れ方というのはすごいものです。

当然、ソフトの開発がその裏側に張り付いています。

コンテからプログラム制作にいたるまで、その開発にはすさまじいマンパワーを必要とします。

たくさんの人間が、日夜より売れる作品を作り出すために働いているのです。

しかしこの類いのゲーム機器とソフトには想像力を働かせる余地はあまりありません。

つまり作られたもので遊ぶという、基本的な形はかわらないのです。

全て、ゲームは製作者の手の中にあります。

模倣された現実

IT技術を駆使して開発された玩具がある一方で、昔ながらの自動車や電車、人形などもないわけではありません。

そこへテレビの人気キャラクターを乗せれば、玩具が完成するのです

アンパンマンのデザインがついた自動車というだけで、子供は喜びます。

ところが、それが全てそのまま使われているかというと、そうではないというのが澁澤龍彦の論点です。

ちょっと最初のところを引用してみましょう。

—————————-

人間というのは気まぐれなもので、人間の遊びは、決して玩具によって100%規定されるものではないのである。

これは大事なことだと思うので、特に強調しておきたいが、玩具の決まりきった使い方を、むしろ裏切るような遊びを人間は好んで発明する。

そもそも遊びとはそういうことではないかと私を思うのである。

たとえば、汽車や自動車の玩具があったからといって、私たちはそれを必ずしも汽車や自動車として用いるとは限らない。(中略)

子供たちはしばしば玩具の現実模倣性によって、最初から予定されている玩具の使い方とはまるで違う玩具の使い方をする。

もう1つ、私自身の経験を語ることをお許しいただきたい。

私は3輪車をひっくり返して、ペダルをぐるぐる手で回して氷屋さんごっこをやって遊んだことを覚えている。(中略)

私の思うのに、玩具の現実模倣性とシンボル価値とはともすると反比例するのではあるまいか。

玩具が複雑巧緻に現実を模倣するようになればなるほど、そのシンボル価値はどんどん下落するのではあるまいか。

あまりにも現実をそっくりそのままに模倣した玩具は、その模倣された現実以外の現実を想像させることが不可能になるだろうからだ。

その名目上の使い方以外の使い方を私たちにそそのかすことがないだろうからだ。

そういう玩具は私にはつまらない玩具のように思われる。

遊びとは何か

澁澤龍彦はなかなか面白いことを言っていますね。

確かによくできた玩具はいいものかもしれません。

しかし子供は案外はやくに飽きてしまうものなのです。

つまりそこにある以上の価値にはならないのです。

子供たちはそれをいじりまわして、自分の想像力の世界につれていきたいのです。

それがかなわない場合、早く飽きてしまうということになります。

遊びとは何かというのは非常に難しいテーマです。

古典的な遊びについての本といったらなんでしょうか。

御存知ですか。

ロジェ・カイヨワを知っていますか。

フランスの哲学者です。

『遊びと人間』が彼の代表作です。

人間にとって遊びの持つ意味を考えようとした人です。

カイヨワは遊びを「アゴン」「アレア」「ミミクリ」「イリンクス」の4パターンに類型化しました。

この言葉を初めて聞いたという人も多いでしょうね。

アゴン(Agon)競争を伴う遊び サッカー、チェスなど
アレア(Alea)運や賭けを伴う遊び じゃんけん、サイコロ、賭け、など
ミミクリ(Mimicry)真似・模倣を伴う遊び ごっこ、空想、仮装、演劇など
イリンクス(Ilinx)目眩やスリルを伴う遊び ブランコ、スキー、サーカスなど

現代の遊びはもっと複雑です。

しかし基本はこの4種類の中に入ると言われています。

子供が最も喜ぶのは何かといったら、目眩だとよく言われます。

事実、回転系の遊具は大変人気がありますね。

遊園地で最も好まれるアトラクションは、回るものなのです。

もちろん、1つだけで成り立っているワケではありません。

いくつかが複合的に組合わされたりするケースが多いのです。

順位を決める要素と仮装をする要素を2つ繋ぎ合わせて、遊ぶなどいうこともよくあります。

ブロックとレゴ

もう1度、売れる玩具について考えてみましょう。

長く売れ続けるものにはどのような要素があると思いますか。

このエッセイの論点とも重なります。

つまり子供の想像力を刺激する玩具が1番、長く売れ続けるのです。

飽きないからです。

可変的な要素を持っていることが重要なポイントです。

わかりやすくいえば、形のない玩具なんですね。

自分で作れるおもちゃと言った方がいいかもしれません。

ブロックだとかレゴだとかあるいはプラレールだとかいうものです。

自由に想像できる玩具の方が長く使われるということになるワケです。

親も与えたがります。

逆に言えば、価値ある玩具というのは子供たちに無限の遊び方をそそのかす存在でなければならないのです。

既存のものでこれ以上、何も手が入れられないということになると、そこで遊びはストップします。

テレビゲームに可変的な要素がないワケではありません。

しかし次々とアイテムを選ぶという作業も、実は既に書き込まれたプログラムの上をたどるという作業に他なりません。

わかりやすくいえば、製作者に操られているのです。

そのことに気づいた人は、いずれ脱落していくでしょうね。

また、本物そっくりに作ったからといってそれを子供が喜ぶかというと、そう単純な話ではありません。

遊びの本質がそこにはないからです。

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人間は創造という作業への誘惑から、どうしても離れられないもののようです。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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