【ぶれない・頑張らない】人の世はほとんど運次第で進んでいくのです

暮らし

難しい時代

みなさん、こんにちは。

ブロガーのすい喬です。

今日は世相をちょっと覗いてみましょう。

価値がめまぐるしくかわる難しい時代です。

昨日まで最上の地位にあったものが、翌日にはもう地に落ちています。

かつては金銭で全てを買おうとし、企業もメセナなどと叫んで、さまざまな分野に余剰金を落としました。

しかしバブルがはじければ一転、ほんのわずかの広告でも出し渋るようになってしまったのです。

さて今はどうでしょう。

リニア新幹線、郵政事業と次々と手を入れてはみたものの、あちこちで破綻が出ています。

かんぽ生命保険の不正販売も話題になりました。

高速道路のために地下深く掘ってみたら、道路に穴まで開いちゃったのです。

リニアのためのトンネル工事もさていつのことやら。

それくらい最近の話なのです。

国立大学の行政法人化も官僚の手に握られてしまいました。

権限のない学長は予算を手にいれるため四苦八苦しています。

全ては文部科学省にお伺いをたてなければ、何も進みません。

こうした時代の中で、自分というもののスケールをどこに置けばいいのか

難問中の難問といってもいいでしょう。

つまりぶれない自己基準の構築です。

いや、もう容易にはできないのかもしれません。

つねに人は相対的な関係の中でしか動けないものなのです。

としたら、私たちに残っているものは何なのでしょう。

人は生きているだけでいい、と主張する人もいます。

宗教の考えの基本にはそうした流れがあります。

五木寛之の人気が続いている背景には、金沢に生まれ、浄土真宗に育てられた芯の強さが垣間見えるからかもしれません。

不安の海

ぶれないというのは本当に難しいことです。

人は不安の海をいつも泳いでいます。

本当は誰かに甘え、誰かにすがり助けてもらいたいのです。

特にこうした時代は、どこにその基準点があるのかわかりません。

コロナ禍の現状をみれば誰にでもよくわかります。

暢気に浮かれていた2年前と今との差はなんでしょうか。

現在では人と会うことさえためらわれるのです。

会食することもお酒の席を持つのも、おっかなびっくりです。

何がよくてなにが悪いのかもはっきりしません。

しかしよくよく考えてみれば、昔も今もそれほどに変わっていないような気もします。

どんな時代にも基準点などは見えなかったのです。

だから人は祈りました。

祈らずにはいられなかったのでしょう。

人の命もはかないくらい短かったですからね。

生老病死。

そこにしか人生の真実はありません。

本当にちっぽけな人間が、疲れ果ててたどりつく場所が祈りなのでしょう。

生きるということは、それだけで苦しいことです。

あまりにもいろいろなことがありすぎます。

人をそれほどまでに試さなくてもいいのではないかと思うことすらあります。

それでも生きなくてはならないのです。

どんなに便利な時代になっても、生きることは日々の営みそのものです。

頑張らない

もう頑張る時代ではないのかもしれません。

私たちは何かといえば、頑張れと相手に声をかけます。

まだ自分自身にもそう呼びかけることが多いようです。

しかしそのことで、逆に疲れ、心が波立ってしまいます。

軽率に頑張れとは言えない時代なのではないでしょうか。

かつて、授業で勉強の話をしていたら、もうこれ以上はできませんと言った生徒もいました。

人の能力は千差万別です。

頑張れる人もいれば、そうでない人もいます。

運動能力は抜群でも、音楽や美術となると全くダメという生徒もいます。

そうした人にただ頑張れと叫べば、それはいじめに通じるのです。

だから何をしなくてもいいといことではありません。

ただ軽々しく頑張れと声をかけることは難しい時代です。

登校拒否の生徒はなんとか学校へ行きたいと日々真面目に悩んでいます。

それをみんなで学校へいこうよと追いつめ、誘ったり電話をしたりすれば、かえって委縮してしまう可能性もあります。

ただじっとそばにいるということだけが必要な時もあるのです。

全てを理性で割り切ることなどできません。

近代は全てを論理で追いかけてきました。

その疲れが、今あらゆる場面にあふれています。

チャットやネットを通じて、バーチャルな時代を生きる若者達は、いよいよいくつもの困難を抱えることになりました。

今の世の中、無駄な情報が多すぎますね。

脳の中で溢れこぼれてしまいます。

自分の感情をどうコントロールし、燃え尽きない状態へ持って行くのか。

これも新しい時代のテーマです。

人生、運次第

人間の一生に運不運というものはあると思います。

確かに幸運な人は存在します。

その反対に次々と不運なことが続く人もいます。

禍福はあざなえる縄のごとしという話を以前、記事に書いたことがあります。

それがほとんどの場合の真実です。

いいことと悪いことは、縒った縄と同じだということです。

それほどいいことばかりが続くワケではありません。

反対も同様です。

確かに一人の人をずっと追いかけていると、そうした現実がより真理に近いと思います。

それでもなぜか、慌ててどんどん不幸に向かって行く人もいます。

不幸になるのが見えているのに、その道に進みやはり案の定、苦労をする。

今まで随分多くの人の人生を見てきました。

いくつも、こうした事例がありましたね。

あの時、なぜ別の方向へいかなかったのかと後で悔やんでみても、もう遅いのです。

不幸になる人は、わざわざ倒れつつある家屋の下敷きになるようにして、その方向へ走って行くものなのです。

それを止めることは誰にもできません。

もちろん、その人の人生の中にも春夏秋冬があったことでしょう。

しかし春と夏があまりにも短か過ぎたのです。

AbsolutVision / Pixabay

それは本当に悲しいことです。

寝たきりになろうが、半身不随になろうが、1人の人間にはいくつもの季節があります。

しかしどうせなら、もう少し別の形で意義ある人生を送って欲しかった。

あるいは死んでほしくはなかった。

そう思うことも何度かありました。

これを他者の傲慢と捉える人もいることでしょう。

しかしそれでもやはりあの時にもう少し別の道を歩いていれば、とつい考えてしまうのです。

人生はやり直しがききません。

それだけに運に頼ることがあっても、その人を狡いとは言えないのです。

それも一つの生き方だと考えることもあってしかるべきなのではないでしょうか。

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皆さんはどのようにお考えになりますか。

難しい時代です。

ぶれない軸を持ち続けたいものですね。

今回も最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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