子供の頃
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は子供時代をどう過ごすかについて書かせてください。
いかに大切な時間かということです。
こう言うと、少し唐突な印象が残るかもしれませんね。
しかし子供の時代をどのように過ごしたのかということが、その後の人生を決定づけるのです。
特異な幼年時代を過ごした人の1人に三島由紀夫がいます。
彼の自伝『仮面の告白』を読めば、その生きざまがよく見てとれます。
実質的には祖母に育てられたのです。
いびつな形で母親的なものを求め続けた作家といえるかもしれません。
同じようなことは夏目漱石にも言えますね。
彼の自伝『道草』を読めばよくわかります。
里子に出された後の苦労は夏目の家に戻った後にもずっと続きました。
養父と漱石との関係がどのようなものであったのか。
それを知ると、彼の文学的な出発点が幼少年時代にあったことがはっきりとわかります。
太宰治もそうですね。
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貴族院議員の家に生まれたとはいえ、母親の愛情をほとんど知らずに育ちました。
名作『津軽』の中で彼が世話になった乳母のたけを探すシーンは圧巻です。
この場面のためにこの作品があると言っても過言ではありません。
高校の教科書にも所収されています。
母親的な愛情に飢えていたことがよくわかります。
ノーベル賞作家、川端康成も同様です。
幼いころに家族がみな亡くなり、孤児のようにして育ったということを『伊豆の踊子』の中に書いてます。
人の死があまりにも近かったのです。
幼少期の最も愛情を必要とする時に、十分満たされなかったということが生きていくうえでどれほどの内圧になるのか。
それが創作の起点だとしたら、あまりにも神は無慈悲です。
貴重な時間
幼い頃をどう過ごしたのかがいかに大切なことか、近頃しみじみと感じます。
よく過去はみんな思い出になっていくという言い方をします。
1枚の紙に貼りついて、そこに存在しているかのようです。
ところがよく内部をさぐってみると、そこには必ず濃淡があります。
最も濃い色で塗られているのが幼少時代なのではないでしょうか。
あんな時代はもう2度とこないと考えれば考えるほど、光り輝いて見える。
親とのつながりや、遊びの1つ1つが懐かしいのです。
いつまでもあの時代のことを忘れたくはありません。
今の子供とは育つ環境が違うといえばそれまででしょう。
プログラミングを学び、英会話を練習する。
それ以前に家にパソコンがあり、スマホがある。
3歳の子供がスマホを操っている姿を見て、親たちは何を思うのでしょうか。
まさにこういう時代になったのです。
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かつては家にテレビがないという時代もありました。
ラジオがやっとだったのです。
それがあっという間にカラー化され、液晶の精細な画面をあたりまえのように見る日々がやってきました。
現在はそれさえも脇に追いやられています。
テレビはネットの番組を見るための装置に変身せざるをえなくなりました。
世界の情報が瞬時に飛び込んできます。
消化するだけで精一杯というのが現状でしょう。
ニュースがフェイクである場合さえあるのです。
それを検証する装置を持ちません。
世界はYesかNoかで2極に分解され、論争がすぐに始まります。
現在はまさにそうした時代なのです。
春夏秋冬
それでも、個々人の中にはやはり子供時代があるのです。
その意味でいえば、子供の季節はやはり春にあたるのではないでしょうか。
もっとも輝かしい時間の堆積ということになります。
この時期をうまく乗り超えないと、本当の意味で芸術を理解する心は育ちません。
作家司馬遼太郎はよくそのことを言っていました。
芸術は子供心の集大成なのです。
いい音楽であれ、美術であれ、童心に返って喜ぶ心がなければ、なんの感動もありません。
幼ない無垢な心がある限り、人は感動し続けられるのです。
かつて版画家、棟方志功が子供たちの版画の審査員をつとめたときの映像をみたことがあります。
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どの版画をみても、本当に心はずませ、どの子もみんな天才だと嬉しそうに語っていた姿が彷彿と蘇ってきます。
それでは子供の時代を上手に過ごせなかった人はどうなるのか。
当然のことながら、他者との関係をうまく保つことに苦痛を感じるでしょう。
欲望をコントロールする能力が、他の人に比べて劣るのではないでしょうか。
自分以外の人間を信じて、身を任せるということができないのです。
心から安心できる他者を持てなかったという不運です。
信じられる人やものがなかったのです。
つまり。あっという間に大人にさせられてしまったのです。
愛情や恋愛よりも快楽へ、さらに金銭欲へと進んでいくのは当然の結果でしょう。
あるいは、いびつな形で他者を受け入れることはできるかもしれません。
しかしそこに本当の意味での安らぎはないのです。
これはある意味で不幸なことです。
それ以外に精神的に貧しかった幼年時代を埋める手だてがありません。
どう生きたらいいのか
もう一度自分の子供時代を思い返してみましょう。
そうすれば、現在の効率優先社会の座標が見えてきます。
どれほど本来のものからずれてしまったかを、すぐに見て取ることができるのです。
これからの時代、どう生きたらいいのでしょうか。
塾や稽古ごとに通ったからといって、それで幸せだと断定することはできません。
心の貧しい子供時代だと決めつけることもできないでしょう。
しかし1つだけ言えることがあります。
子供を急いで大人にすることだけはやめてほしいですね。
情報過多の時代だけに、難しいことはよくわかります。
先んずれば人を制すという諺も確かにあります。
のんびりしていたら、生存競争に負けるのだという考え方があるかもしれません。
しかし嬉しいことや、悲しいことを当たり前のように感じる人間を育てていかなくてはなりません。
大人のようなものの言い方をする子供をみると悲しくなります。
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よくテレビのインタビューに答えている都会の子供をみると、いつからこんな風になってしまったのかと空恐ろしく感じます。
将来のために今は我慢しろと言い続ければ、必ずツケが後で回ってきます。
そういう意味で、むしろ大人こそが今、本当の意味で自分の生き方を試され、問われているのもしれません。
子供の未来のために今は目をつぶろうと考えている親もいることでしょう。
しかしそれが本当に未来のためになっているのかどうかは、誰にもわかりません。
大変にデリケートで難しい問題です。
小児は白き糸の如し。
子供はどんな色にも染まります。
それだけに大人のしっかりした価値観が今こそ必要なのです。
今回も最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。