移動する生物
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、ブロガーのすい喬です。
今回はGoToキャンペーンで話題になった人間の移動について考えます。
いよいよ中止が決定しましたね。
もっと早くやめればよかったのにというのが偽らざる感想です。
あまりにも経済を重視した結果が現在の窮状です。
旅行関係の業者、運輸、ホテル、旅館、飲食店、みやげ店などにとってはまさに死活問題でしょう。
それでも命の方がやっぱり大切です。
ちゃんと効くワクチンが皆に広まるまでは当分、ダメでしょうね。
しばらくして沈静化しても、1月半ばに解禁したら、またもとの黙阿弥でしょう。
感染症というのはそういうもんです。
いくら用心してもしすぎることはない。
会食なんてとんでもない話です。
大変な世の中になったものです。
収束への道ははるか彼方のような気がします。
ところで話題はかわりますが、劇作家の別役実をご存知ですか。
ぼくの大好きな作家でした。
童話なども書いているので知っている人がいるかもしれません。
文革座アトリエで上演された彼の芝居には何度も出かけました。
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今年の3月に亡くなったのです。
1つの時代が終わったようで悲しかったです。
不条理な芝居を書かせたら、この劇作家の右に出る人はいませんでした。
随筆や評論もたくさん書いています。
サミュエル・ベケットの影響を強く受け、物語の骨組みがなんの脈絡もなく崩れていく様子を見事に再現しました。
マッチ売りの少女
早稲田大学入学後、演出家の鈴木忠志と出会ったことで、彼のその後が決まったとも言えます。
大学中退後サラリーマンをしつつ、喫茶店で作品を書き続けました。
1968年、『マッチ売りの少女』『赤い鳥の居る風景』で第13回岸田國士戯曲賞を受賞。
多くの劇団がこぞって彼の作品を上演したのです。
その作品の1つが『移動』でした。
彼の芝居の風景はいつも決まっています。
電信柱が1本。
それと万国旗。
さらにリヤカー1台。
この3つがあれば、別役実の世界は完結してしまいます。
『移動』のあらすじは単純です。
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電信柱があるだけで、ほかには何もない茫漠として場所に、赤ん坊を背負った女が現れます。
その後から家財道具一式を山積みにした荷車を引く男と、彼らより年を取った男と女。
5人の登場人物はどうやら家族らしいのです。
一家はそれまでの暮らし、土地や人間関係と決別し、とにかく出発します。
その間、目に映るものといえば何もない空間だけ。
見えるのは同じような恰好の電信柱のみです。
日の明け暮れとお茶の時間だけが区切りの、当てどない日々が続きます。
彼らはただ黙々と歩みを進めていくのです。
若い男、ビラ貼りの夫婦、反対方向から旅してきた別の男女と出会います。
束の間、彼らと時を共有するものの、再び別れます。
行く先もわからず、始まりや終わりもはっきりしません。
判然としないまま、ひたすら続くのは移動するという事実だけです。
その先には何があるのか。
それさえも告げられないままなのです。
見ていると、とても不安になります。
しかしなんとなくおかしいのです。
セリフもとぼけています。
見ているうちに、この登場人物たちは自分と同じだと、ふと思ってしまうのです。
不安と不条理
別役実の作品はみんな似たような調子です。
彼が影響を受けたベケットの代表作『ゴドーを待ちながら』も同じですね。
登場人物はゴドーがやってくるのをただ待っています。
どの人がゴドーなのかもわからないまま、ゴドーが来るのをひたすら待ち続けるという芝居なのです。
ゴドーとは誰か。
人間なのか。
まさに不条理劇と呼ばれる所以です。
ゴドーとはもしかするとゴッドなのかもしれません。
しかしよく考えてみると、今のコロナ禍はまさに別役の芝居と似ているような気もします。
どこへ向かって移動しているのかわからないまま、ただ人は進んでいる。
どこが結論なのかもわからないのに、人々はただ右往左往しながら移動を繰り返しているだけです。
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リヤカーが新幹線になろうと、飛行機になろうと、本質は全く変わりません。
装置に深い意味はないのです。
メッセージは何か。
人間はつねに移動するというごく単純なことだけです。
つまり人間が生きていくということは、たえずある地点からある地点へ身体を動かしていることを意味するのです。
なぜか。
移動していないと不安なんでしょう。
狭い意味でいえば、毎日の通勤、通学もそれにあたります。
ずっと家にいていいと言われると、たまらなく不安になります。
それまでの枠組みが一気に崩れてしまうからです。
人間の幸福とは
旅もまさにそうです。
飛行機の時代になり、1日に数千キロを移動することも可能になりました。
宇宙的規模で考えれば、数万キロということもあり得ます。
それほど、現代の人間はたえず蠢いているのです。
このことをどう考えればいいのでしょうか。
人間が一生のうちにこれだけ動くようになったのは、本当にここ100年ぐらいのことに過ぎません。
それまではだいたい生まれたところから一歩も外へ出ず、そこで死んでいったのです。
渡辺京二という評論家の書いた『逝きし世の面影』という本は名著の誉れが高いです。
この本には江戸から明治期にかけてやってきた外国人たちの目に、日本人がどう捉えられたのかということが書かれています。
当時の日本人が実に心豊かに暮らしていたということが示されているのです。
決して移動などはしませんでした。
日本が大変安全な国であったという記述もあります。
憲法発布の祝賀行事においても、群衆には秩序がありました。
3万人以上の見物人に対して、警察官はわずか25人で十分だったそうです。
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愚民政策の故だったということでもありません。
人々は清潔な身なりをし、大変礼儀正しく、貧しいけれど大らかであり、そのことを恥じてはいないとあります。
江戸時代においても一生に一度、お伊勢参りがかなえば、これ以上の幸せはなかったでしょう。
武士は役目柄、藩と江戸を一度くらいは往復したことがあるかもしれません。
それにしてもそれだけのことです。
一生に何度も外国旅行をして見聞を広めるというようなこともありませんでした。
考えてみれば、これだけ自由に多くのものを見たり聞いたりできる時代は今が初めてなのです。
しかしその割には心豊かで幸福な人間の姿が垣間見えてきません。
いつも足りないことを口にし、心は平安でないのです。
情報の嵐の中でさまよっているかのようにも見えます。
生きるとは移動することです。
しかしあまりにも過剰になりすぎたのかもしれません。
今回のGoToキャンペーン中止の報に触れ、あらためてそんな気がして仕方がないのです。
別役実の描いたリヤカーはさてどこへ向かえばよかったのでしょうか。
皆さんも考えてみてください。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。