【フェミニスト批評の試み】男性文化の視点から離れた別の切り口を模索する

フェミニスト批評

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

批評というのは実に難しいものです。

特に近年、高校では『論理国語』に代表される評論が授業の中心に据えられつつあります。

論理を前面に立てて、全体像を切り取り把握していくという学習の方法です。

従来から芸術、自然、文化などについての評論は数限りなくありました。

さらに文芸、演劇、映画批評なども盛んにおこなわれています。

今回は新しい視点から、批評を試みようとする方法について纏めてみましょう。

参考にするのはシェイクスピア研究家、北村紗衣氏の著作です。

ここでは彼女が試みている「フェミニスト批評」について考えてみます。

あなたはこの表現を耳にしたことがあるでしょうか。

彼女が提唱しているものに「クィア批評」というのもあります。

「クィア」とは「変態の」「奇妙な」というような意味の侮蔑的表現をさします。

現代は正常と異常の判別がつきにくい時代です。

その視点から、セクシュアリティの問題を考えようとするタイプの批評のことです。

著書『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』(2019年)から関連した部分を抜き書きします。

シェイクスピア研究との関係についても、興味が湧きますね。

どういう視点からだったら、新しいタイプの批評の試みは可能なのか。

それを知るだけでも、かなりインスパイアーされるのではないでしょうか。

この教材は明治書院版「文学国語」に所収されていたものです。

「論理国語」と同様、今年から指導要領に加えられました。

本文

フェミニスト批評は、これまでの批評が実は男子文化だった、というところに立脚しています。

批評の歴史において、批評家は男性中心的な社会の中で作られたテクストを男性中心的な視点で読み、それが普遍的に通用する解釈なんだ、と無意識に思い込んでいました。

私たちは男性中心的な社会に生きていて、性別や性的指向を問わず、知らず知らずのうちに男性中心的なものの見方を身につけてしまっています。

女性は自然と男性にあわせた見方でものを見ていることも多く、なんか変だなと思ってもうまく言葉にできなくなりがちです。

その中で、フェミニスト批評や、その近接分野であるクィア批評というのは、女である私にも楽しめる読み方を提供してくれるものでした。

クィアというのはこれまたとても定義しづらい概念で、もともとは「変態の」「奇妙な」というような意味の侮蔑的表現です。

現在ではこうした侮蔑を逆手にとって、世間的に「正常」とされるセクシュアリティにおさまらないことを「クィア」と呼称しています。

同性愛やトランスジェンダーなどにかかわることだけをクィアと呼ぶと思っている人もいるようですが、これは若干不正確で、いわゆる「フツー」と違う、何か逸脱があるようなセクシュアリティにかかわるものは、すべて包含しうる概念です。

こうしたセクシュアリティにおける逸脱や「何かが違う」ものをテーマに、文学や芸術などを読み解く批評をクィア批評と呼びます。

実際の方法

筆者の論点にしたがって、実際の手順を考えてみましょう。

次のような方法があるそうです。

基本はテクストに隠れている性差別を指摘することです。

そのため最初にテクストを丹念に読みます。

この場合、外国の文学を必ずしも原文で読む必要はないそうです。

もちろん、読めればそれにこしたことはありません。

次に、作品全体をキーワードで解釈できる切り口を見つけることが大切です。

象徴について分析したい時は「通常であればそこに出てこないモノ」「やたらしつこく出てきているモノ」に着目するのです。

批評する時に大切なのは、固定観念に縛られた考えだけで作業をしないということです。

言うのは簡単ですが、これを実際に行うのはとても難しいです。

どうしてもそれまでの思考回路で、ものを考えてしまうのは、ある意味当然なのです。

その時に役立つのが「フェミニスト批評」なのだ、と彼女は力説しています。

基本は女性作家そのものに光を当てたり、性差別を取り上げることです。

作品に描かれた登場人物の男性性、女性性を切り口にしてみる方法もとれます。

従来の批評は男性の価値観が中心にあったというのは事実でしょう。

批評家の多くが男性だったからです。

意識するかしないかは別にして、どうしても男性性の方向へ傾くのは、ある意味仕方のないことだったのかもしれません。

しばらく後に女性の批評もあらわれましたが、どうしても女性が男性性の方へ引っ張られていったことも事実です。

厄介なのは、それを特に意識していなかったところにあります。

いつの間にか、そこに普遍性が見えたのでしょう。

互いに不幸であったとも言えます。

その歪みに気づいたところから出発するというのは、ある意味自然なことです。

今日のように、たくさんの女性が作品を発表するようになり、そこに偏りがあることが認識されていったのです。

おそらく、本当の意味での批評はこれから始まるのではないでしょうか。

現在のところは物珍しさの要素もあり、声高に語られてしまう傾向がないとはいえません。

今後はごくあたりまえに、新しい批評の方法論として、地に足がついた研究が多くなされることと思います。

たくさんの女性作家がいるにもかかわらず、批評の分野から女性が退けられてきたという背景そのものが、むしろ問題ですね。

そこには評論の持つ特殊な感覚が宿っているのかもしれません。

当然のことながら、批評は客観的で論理的なものでなくてはなりません。

それに比べると、女性の持つ感覚の特徴は、内面を重視する主観に中心が置かれがちでした。

これからは新しい視野の上に立って、批評を広げてみせるという方法論がとられるべきだと考えます。

批評の教室

北村紗衣氏には『批評の教室─チョウのように読み、ハチのように書く』(ちくま新書)という2年前に出版された著書もあります。

そこで彼女は批評をするとはどういうことかを丁寧に説明しているのです。

従来、アマチュアが批評をすることは生意気だという雰囲気がありました。

それを誰でも批評はできるのだという論点で、そのための方法論を展開してくれたのです。

彼女は「批判は言論の健全性を保つために必須」だと言います。

さらに「批判に基づく改善を目指すことなしに自由な言論の場は成立しない」と主張しています。

あらゆる批評は、まさにこの本のタイトルにある通りに行われるべきなのかもしれません。

批評を書くために必要なのは「精読する」「分析する」「書く」という作業を繰り返し行うことです。

具体的にはどうすればいいのでしようか。

簡単にイメージをまとめておきます。

「精読する」

①作品内の事実を認定する
②作品の主旨を読み取る
③他者の嘘を見抜く

「分析する」

①タイムラインに起こしてみる
②物相関図を描く
③物語を要素に分解する

「書く」

①1つの視点から切り込む
②タイトルをつけて自分を縛る
③自由に書きすぎない
④ルールをすべてを無視する
⑤読者に好かれたいと思わない

どれも一筋縄ではいきそうもありません。

そのことをしっかり認識しながら、ぜひあなたも批評を試みてください。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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