風姿花伝
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は世阿弥の著書『風姿花伝』を扱います。
授業で取り上げたことはないです。
教科書にも載っていませんでした。
最近ではわずかですが、所収されているものもあります。
15、6歳の生徒が読んで理解できるのかどうか。
しかし現代では、さまざまな芸術の分野に若い人たちが果敢にチャレンジしています。
世界的なコンクールで活躍している人の姿をみると、応援をしたくなりますね。
彼らにはすぐれたコーチが必ずついています。
先日もフィギュアスケートの宇野昌磨選手の演技をテレビで見ました。
その前後、頻繁に映ったのはランビエル・コーチとの応答の様子でした。
演技が終わった後、得点が発表されます。
その時の喜び方をみていると、まさに一心同体とはこのことだろうと感じました。
名馬がいて、名伯楽がいる。
彼らはいい友人のようだといっていますが、そんな簡単なものではないでしょう。
この両者の歯車がきちんとかみあっていなければ、けっして上の段階へ進むことはできないのです。
どのような世界でも似たような風景が見られますね。
ぼく自身、道楽で落語をやっています。
昨日も落語会がありました。
始めてから15年の歳月が流れています。
最近、しみじみと感じることが増えました。
自分の枠を超えられない
ここまでやってきて思うことは、自分自身の殻を破ることがいかに難しいかということです。
夏目漱石の小説に『夢十夜』があります。
そこには運慶の夢をみたという話が載っています。
東大寺の山門にある金剛力士像を彫った仏師です。
その第六夜は次のような内容です。
護国寺の山門で運慶が黙々と仁王を彫っています。
鎌倉時代のようでもあるが、見物人を見ると明治の現代のようでもありはっきりとはしません。
見物人が運慶は木の中から仁王を彫りだすのだと言うのです。
彼は彫っているのではない。
そこに埋まっている仁王の姿を、ただ取り出しているだけだと主張するのです。
さっそくやってみたものの、自分にはできなかったというのです。
落語もこれと同じです。
演者の持っている世界をそこに描きだすことが全てです。
自分がもっていないものをいくらやってみろと言われてもできません。
人間を描けなければ、所詮絵に描いた餅です。
そこで生きているわけではないのです。
つまりリアリティがない。
登場人物が自分勝手に動いてくれないような噺は、所詮面白くありません。
前座の噺がなぜつまらないのかといえば、そこに生きた人間がいないからです。
感情移入もなければ、人に対する認識もありません。
そのことは後になって『花伝書』を読むようになり、強く感じられるようになりました。
始めた頃は夢にも思わなかったことです。
秘すれば花
もともと『風姿花伝』あるいは『花伝書』は世間一般の人に向けて書かれた本ではありません。
世阿弥個人の覚書きのようなものです。
能の家を継ぐ人にだけ、稽古、演技、興行の方法、芸道の奥義を伝える秘中の秘でした。
誰もが手に触れて読めるようになったのは、明治になってからなのです。
そこには怖ろしい言葉も載っています。
この本は家の大事、一代一人の相伝なりとあります。
たとえ跡を継ぐべき我が子であっても、能力のないものには伝えてはならないというのです。
観世の家をなんとしても後の世まで残さなければならないという覚悟が、文面から読み取れますね。
世阿弥の自筆本は今、ほとんど残っていません。
僅かに伝えられているものは、現在も観世の家に大切にしまわれているそうです。
今の宗家が「道成寺」を舞った後、先代の家元に呼ばれ、黄色い風呂敷包みを渡されました。
どのようなことがあってもこれを抱えて生き延びなさい。
家族などはどうでもよいと厳命されたそうです。
600年守り抜いて来た本は桐の箱の中に入っていました。
それこそが世阿弥の自筆本だったのです。
そこにはこの芸道の持つ秘技が書かれていました。
最も有名な言葉は第七別紙口伝の言葉です。
誰もがよく知っています。
しかしその意味をきちんと理解している人は多くはありません。
「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」
観客に珍しさを感じさせるには「秘すこと」が大切です。
予想されてしまってはいけないのです。
こんなに難しいことはありません。
実際に1つの芸能をやってみればわかります。
全てに共通した考え方の基本中の基本です。
新しさを常に表現する。
しかもマンネリになってはいけないのです
芸道はなんのためのものか
世阿弥がよく使った言葉は「寿福延長」でした
多くの人のこころを楽しませること。
幸福を延長し、寿命を伸ばすこと。
芸の道はこれにつきるというのです。
スポーツも同じではないでしょうか。
WBCの超人的なプレイも、結局は人々をより幸福にするための技なのです。
ローマ人の言葉ではありませんが、人は結局「パンとサーカス」のために生きているのかもしれません。
それを目指すのが、芸に生きようとした人間の宿命です。
「時分の花をまことの花と知る心が、真実の花になほ遠ざかるなり」
これも厳しい言葉ですね。
若い頃は何をしても美しくもてはやされるものです。
しかしそれは所詮その時だけの花です。
やがて枯れてしまえば、誰も声をかけてはくれません。
若いタレントの浮き沈みによく似ています。
そこから「まことの花」を得る人はそれほど多くはないのです。
「上手は下手の手本」、「下手は上手の手本」とも言います。
いい気になって有頂天になっているうちは、所詮まことの花からは程遠い場所にいるのです。
全ての芸能に通じることばです。
しかしよく考えてみると、人生を見通した表現ではないでしょうか。
世阿弥は苦労し続けの人生を送りました。
それだけに先が見えている、怖い人だとしみじみ思います。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。