【花は盛りに・徒然草】兼好法師の美意識は人の世の真実に重なる【反語】

花は盛りに

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は『徒然草』をとりあげます。

この本は何度読んでも飽きませんね。

不思議なエッセイです。

この章段は必ず高校の授業で習います。

何度扱ったことでしょうか。

そのたびにもっともだなと納得させられてしまいます。

しかしすぐに忘れてしまうのです。

数年後に再び読むと、兼好法師という人の持っている美意識に感心させられます。

彼は世の中を実に冷静に見ていますね。

怖いくらいです。

何が本当に大切なのか。

今の時代くらい、考えなければならない時はないのではないでしょうか。

それくらい、価値観が揺らいでいます。

geralt / Pixabay

経済優先の世の中が、情報の量とあわせて前のめりに進んでいます。

だれにも止められない。

暴走といってもいいでしょう。

それだけに、兼好法師の書いた文を読んでいると、心の底から納得せざるを得ません。

まず読んでみましょう。

反語表現の多いことに気づくはずです。

原文

花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは。

雨に向かひて月を恋ひ、たれこめて春の行方知らぬも、なほあはれに情け深し。

咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ、見どころ多けれ。

歌の詞書にも、

「花見にまかれりけるに、早く散り過ぎにければ。」とも、「さはることありて、まからで。」なども書けるは、「花を見て。」と言へるに劣れることかは。

花の散り、月の傾くを慕ふならひはさることなれど、ことにかたくななる人ぞ、

「この枝、かの枝、散りにけり。今は見どころなし。」などは言ふめる。  

よろづのことも、初め終はりこそをかしけれ。

男・女の情けも、ひとへにあひ見るをば言ふものかは。

あはでやみにし憂さを思ひ、あだなる契りをかこち、長き夜をひとり明かし、遠き雲居を思ひやり、浅茅が宿に昔をしのぶこそ、色好むとは言はめ。

望月のくまなきを千里のほかまで眺めたるよりも、暁近くなりて待ち出でたるが、いと心深う、青みたるやうにて、深き山の杉の梢に見えたる、木の間の影、うちしぐれたるむら雲隠れのほど、またなくあはれなり。

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椎柴・白樫などの、ぬれたるやうなる葉の上にきらめきたるこそ、身にしみて、心あらん友もがなと、都恋しうおぼゆれ。

すべて、月・花をば、さのみ目にて見るものかは。

春は家を立ち去らでも、月の夜は閨の内ながらも思へるこそ、いとたのもしう、をかしけれ。

よき人は、ひとへに好けるさまにも見えず、興ずるさまもなほざりなり。

片田舎の人こそ、色濃くよろづはもて興ずれ。

花のもとには、ねぢ寄り立ち寄り、あからめもせずまもりて、酒飲み、連歌して、果ては、大きなる枝、心なく折り取りぬ。

泉には手・足さしひたして、雪には下り立ちて跡つけなど、よろづのもの、よそながら見ることなし。

現代語訳

桜の花はその盛りの様子だけを、また月は曇りのないものだけを見るものなのでしょうか。

雨に向かって見えない月を恋い慕い、すだれをおろして家の中に引きこもって春が暮れてゆくのも知らないでいるのも、やはりしみじみとして情趣が深いものです。

桜を見るにも今にも咲きそうな梢とか、花が散って、しおれた花びらがある庭などにこそ見る価値が多いものです。

和歌の詞書にも、「花を見に参りましたところ、もう散ってしまっていたので。」とか、

「都合の悪いことがあって参りませんので。」などと書いてあるのは、

「花を見て。」と言っているのに劣っている点があるのでしょうか。

花が散り、月が沈もうとしていくのを恋い慕うならわしは、もっともなことです。

しかし特に趣きを理解しない人は、

「この枝も、あの枝も散ってしまった。今は見る価値がない。」

などと言うようです。

花や月に限らずどんなことも、その盛りよりも初めと終わりのほうが趣が深いものなのです。

男女の恋愛も、ただひたすら会って契りを結ぶのだけを恋というのでしょうか。

恋人と会うことなく終わってしまったつらさを思い、果たされなかった約束を嘆き、長い夜を独り寂しく明かすこともあります。

はるか遠い所にいる恋人を思いやり、芽が生い茂る荒れ果てた住まいで昔の恋人のことをしみじみと思い出すのこそ、恋の情趣をよく理解しているといえるのです。

月も同じことで、満月で曇りなく照っているのをはるか遠く千里のかなたまで眺めているのよりも、明け方近くになって待ちこがれた月の方が、たいそう趣深いのです。

青みを帯びているようで、深い山の杉の梢の間に見えている様子や、気の間からもれる月の光も美しいです。

時雨を降らせているひと群れの雲に隠れている月の様子は、この上もなくしみじみとした趣深いものです。

椎の木・白樫などの、濡れているような葉の上に月の光がきらめいているのは、しんみりと心にしみてきます。

この素晴らしい情趣を解する友がそばにいたらと、都が恋しく思われるものです。

人は月や花を、そんなに目でばかり見るものでしょうか。

春は花を見るために家から外へ出かけなくても、秋の月の夜は寝室の中にいても、月や花のことを心の中で思っていることの方が、期待が持てて趣きが深いのです。

教養のある人は、何事につけてもむやみに風流を好みふけっている様子にも見えないで、楽しむ様子もむしろ淡白です。

片田舎の人に限って、こだわりを持って何事をも面白がるものです。

そこで美しく咲いた花の下に、人を押しのけて近づいたりもします。

よそ見もせず、酒を飲み連歌をして、ついには、大きな枝を、深い考えもなく折り取ったりするのです。

また、夏には泉の中に手や足を突っ込んだり、冬には降り積もった雪の中へ下り立って足跡をつけるなどして、どんなものでも、離れたままで見るということがありません。

徒然草の底力

平安時代に生まれた随筆『枕草子』は非常に有名です。

それに『徒然草』『方丈記』を加えて日本の三大随筆などとも呼んでいます。

確かにこの三作は質的に抜きんでていると感じます。

『徒然草』は作者が48、49才ころまでに書かれました。

人生、社会の問題、自然観、芸能、説話、逸話なども取り上げて多くの角度から、ものごとの本質を見ています。

兼好法師という人は、本当にさまざまなことに関心を寄せていたようです。

満開の時だけが桜の絶頂なのだろうかと言われると、確かにそれだけではないような気がしてきます。

多くの人達は、希望通りに生きられたワケではないでしょう。

突然の不幸や病気に見舞われることも多々あったと思います。

というより、そういう人の方が多かったでしょうね。

一生、同じ土地から出ることもなく、名所見物をしたこともなかったに違いありません。

日々の暮らしに汲々としていたのが、本当のところです。

来世を夢見て、仏の慈悲にすがってなんとか生きていったというのが、実態に近いのではないでしょうか。

度重なる戦乱や、疫病、火災、飢饉など、不幸の種は繰り返して人々を襲ったと想像されます。

どうしたら少しでも心豊かに生きていけるのか。

その答えの1つがこの文章なのです。

だからこそ、兼好の語り掛けた言葉が、人々の胸に沁みこんでいったのではないでしょうか。

彼の文章から、生きるための知恵と力を少しでも手にしたかったに違いないのです。

それが『徒然草』の本当の底力になったと感じます。

反語がいくつもでてきますが、そこに兼好法師の本当の気持ちが隠れているのです。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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