稀代の難問
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は落語を扱った入試問題をご紹介します。
といってもあらすじがどうしたなどという話ではありません。
より本質的なテーマです。
出典は藤山直樹『落語の国の精神分析』。
筆者は精神分析医です。
この本は落語というものが、どのような精神状況において繰り広げられるのかということを語ったものです。
とにかくとんでもなく難しい。
選択問題ではありません。
全て記述式です。
![](https://suikyoblog.com/wp-content/uploads/2020/12/undraw_Party_re_nmwj-1024x700.png)
この本はいつもぼくが行く図書館の決まった場所にあります。
ほとんど誰にも読まれることはないのでしょう。
ここまで落語というものの本質を知りたい人はそう多くないと思われます。
むしろ笑いたい人が大半で、この本を読み、一緒に悩みたいなどいう奇特な人は皆無なのです。
誰にも読まれることなく、本は孤独な時間を重ねています。
しかし読み出すと面白いです。
これは掛け値なく真実をえぐった本だと感じます。
前書きに「精神分析家が自身の仕事と落語を比較して述べたもの」とあります。
つまり落語と精神分析との比較研究といった方が正しいでしょうか。
動機
なぜこの本を再読したのかといえば、純粋に入試問題を解いて納得したからです。
実はスタディサプリの課題の中にありました。
一昨年、問題を1題ずつ毎日解きました。
その時にめぐりあったのです。
いい問題でした。
ものすごく本質をズバリとえぐっています。
しかし難しい。
以前読んだ記憶があるものの、その大部分を忘れていたのです。
あらためて、じっくりと文章を読みなおしました。
その結果、事実を正確に描写するというのはこういうことなのだと実感した次第です。
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落語には何かを演じようとする自分と、見る観客を喜ばせようとする自分の分裂が存在する。
それは「演じている自分」とそれを「見る自分」の分裂であり、世阿弥が「離見の見」として概念化したものである。(本文より)
ここまで読んだ時に、人格の分裂という表現が言い得て妙だと思いました。
少し読み込んでみます。
![](https://suikyoblog.com/wp-content/uploads/2020/01/undraw_art_museum_8or4-1024x626.png)
問題文は長文です。
その1部に次のような表現がありました。
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落語という話芸のユニークさはこうした分裂のありかたに、もっと言えば、そうした分裂を楽しんで演じている落語家を見る楽しみが、落語というものを観る喜びの中核にあるのだと思う。(本文より)
多くの観客の前で噺家は期待の視線にさらされます。
落語家はつねに孤独です。
観客の立場にたって、自分を冷静に見ながら、なおかつ登場人物の中に自分自身を投影していかなければいけないのです。
演者はネタの中に出てくる人物たちにその瞬間同化します。
登場人物たちがお互いに何を語るのか知らないというのが基本の設定なのです。
次に何を言うのか
よく稽古で言われる言葉に、登場人物たちは相互に何を語るのか知らないのだというのがあります。
誰が知っているのか。
落語家だけです。
だからといって知っていることをお客に悟らせてはいけないのです。
次々と出るセリフはあくまでも当事者がその場で喋る内容です。
あらかじめ誰も知らないということが前提です。
それを崩すと落語になりません。
演劇も同様です。
![](https://suikyoblog.com/wp-content/uploads/2019/11/ポイント_1573341539-1024x379.jpg)
セリフだと思わせたら失敗なのです。
つまり登場人物になり切る噺家は、その段階で精神的には分裂しています。
噺家はお金を払って「楽しませてもらおう」とわざわざやってくるお客に対して、たった一人で対峙します。
落語家には共演者もいないし、演出家もいません。
すべて自分で引き受けるしかないのです。
しかも、反応はほとんどその場の笑いでキャッチできます。
残酷なまでに結果が演者自身にはねかえってくるのです。
精神分析
精神分析家も毎日自分を訪れる患者の期待にひとりで対するしかありません。
患者と分析家だけなのです。
パーソナルな人生に深い苦悩を抱えている人たちばかりです。
多くの観衆の前でたくさんの期待の視線にさらされる落語家の孤独とよく似ています。
昨日大いに観客を笑わせたくすぐりが今日受けるとは限りません。
噺家は冷静に1人の観客になって、演じる自分を見る必要があります。
いわゆる離見の見です。
登場人物たちはその間も互いにぼけたり、つっこんだりし合っています。
相互がそれぞれの意図を知らない複数の他者としてその人物たちが現れなければならないのです。
ここが1番難しいところですね。
高座にあがってやってみるとよくわかります。
つまり分裂した他者をそこに現出させるのです。
人間は本質的に分裂しています。
それが精神分析の根本的な考え方です。
相互の比較は実に興味深いものでした。
ここで入試にどんな設問が出たかをご紹介しましょう。
問1 「このこころを凍らせるような孤独」とはどういうことか説明せよ。(60字程度)
問2 「落語家の自己はたがいに他者性を帯びた何人もの他者たちによって占められ、分裂する」とはどういうことか説明せよ。(60字程度)
問3 「ひとまとまりの「私」というある種の錯覚」とはどういうことか説明せよ。(60字程度)
問4 「精神分析家の仕事も実は分裂に彩られている」とはどういうことか説明せよ。(60字程度)
問5 「生きた人間としての分析家自身のあり方こそが、患者に希望を与えてもいる」とある
が、なぜそういえるのか、落語家との共通性にふれながら100字以上120字以内で説明せよ。
![](https://suikyoblog.com/wp-content/uploads/2019/10/危険_1571983776-1024x576.jpg)
ものすごい問題ばかりですね。
もちろんぼくも解答に挑戦しました。
かなり苦労しました。
しかし解いた後は爽やかでした。
いい問題だとしみじみ感じました。
以前からなんとなく感じていたことにズバリと切りこんだという印象が強かったです。
よかったら、是非手にとって読んでみてください。
落語論の中でこの本は傑出しています。
こんな問題を出す大学はそんなにありませんけどね。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。