【小論・ネット社会】世界が狭くなり情報は実感のない風景の一部になった

小論文

ネット社会と身体性

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回はネット社会の功罪を考えます。

ネットワークが張り巡らされていない空間を想像するのは、今や不可能そのものです。

どこへいってもWifiが利用でき、インターネットに繋がります。

あらゆる情報がクラウド化され、瞬時に検索が可能になりました。

大学での研究も当然、その恩恵を受けています。

さらに日常の暮らしでも、あらゆるシーンでネットを利用しているのです。

それだけに、ネット社会の問題を出題された時、自分なりの立ち位置をきちんと決めておく必要があります。

便利だがよくないといったアイマイな捉え方では、意味がありません。

どこに問題があり、どこが優れているのか。

問題点を解決するための方法は何か。

それぞれの内容をきちんとあなたなりに把握しておいてください。

ネットの話は来年度の入試にも出題される可能性があります。

それだけ、時代の要請にあっていると考えられるからです。

しかし実際に出題される課題文の内容は多岐に渡ります。

どれか1つだけのテーマが出るというワケではありません。

与えられた文章を正確に読解し、どこがポイントなのかを正確に見極めなければなりません。

最大のポイントはキーワードを探すことです。

この文に即していうと、なんでしょうか。

あなたには読み解けましたか。

要旨のまとめ

課題文のタイトルは『ネットで「世界」は狭く情報は身体を離れる』というものです。 

この長い題名の中に、ヒントがいくつも詰まっていますね。

筆者はメディア論が専門の吉岡洋氏です。

内容を手短にまとめてみましょう。

ポイントをつねに箇条書きにする練習をしてください。

次のような内容です。

➀メディアが発達したことにより、世界が狭くなった。

②身体の運動をせずに、知識が獲得できる時代がきた。

③知覚と運動が切り離され、分離されている。

④情報に意味を与えるのは、身体の行動である。

⑤意識的に情報を遮断する能力を身につけることが大切である。

この中で最も大切な表現は「身体」「知識」「遮断」です。

キーワードはまさにこの3つです。

逆にいえば、ここを外さなければ、とんでもない文章を書く危険性はかなり減ります。

しかしどのように料理するかについては、相当考えなければなりません。

課題文

世界がとても狭くなってしまった。

ここには二つの意味が含まれている。

第一に、メディアの発達によって、世界のさまざまな場所で起こっている出来事を、簡単に知ることができるようになった。

新聞、写真、電話、映画、テレビ、そしてインターネットのおかげで、空間的距離や時間的遅れはどんどん縮小されてゆき、その結果世界はたしかに「狭く」なった。

メディアの中では、自爆テロもオリンピックも国会での証人喚問も、あたかも目の前で繰り広げられている一連のショーのようだ。

それらは悲しみや怒りや喜びといった強い感情を引き起こすけれど、自分自身は日常生活という「観客席」にすわったままなのである。

これは未曾有の状況である。

人間は長い間、自分が住む小さな共同体=ムラの外で何が起こっているかを確かめるには、旅に出る他はなかった。

「旅」とは身体がリアルな時空間のなかを運動することであり、その運動を通して世界を経験することである。

これは生き物として自然なことでもあった。

一方メディア環境においては、身体の運動なしに世界についての知識が獲得される。

そこでは反対に、より多くの情報を得るためには、より長くモニターの前にすわっていること、つまりできるだけ身体を動かさないことが必要になる。

そこでは知覚と運動とが分離されている。

その意味で、生き物としてたいへん無理なことを強いられているわけだ。(中略)

情報ネットワークは、それがただ存在するというだけでは、未知の人々どうしの出会いなど生み出さない。

むしろ現在のインターネット環境においては、人々は情報を既製品のカタログのようなものとして経験する。

出会い系サイト」では、人間どうしの「出会い」すら、もはや思いがけない出来事ではなくなり、一定の「手続き」に変えられてしまう。(中略)

かつては、わずかな情報を手に入れるために、図書館に通って片っ端から資料を調べたり、注文した外国雑誌を何か月も待ったりしなければならなかった。

それはたしかに不便なことであった。

けれどその「不便さ」がある意味では、情報の意味をゆっくり考える猶予を与えてくれていたとも言える。(中略)

こんなふうに言ったからといって、昔を懐かしんでいるわけではけっしてない。

そうではなく、人間がつねに身体をともなった存在であること、情報に意味を与えるのはこの身体を通してしかありえないことを、今一度思い出そうと言っているだけだ。

インターネットにどっぷり浸りきるのも、逆にそれを拒絶するのも得策とは思えない。

大切なのはむしろ意識の中で「頻繁にスイッチを切る」習慣かもしれない。

何を主眼に書くのか

冒頭に「世界がとても狭くなった」とあります。

その理由はなんですか。

キーワードと関連づければすぐにわかりますね。

「知識」と「身体」を切り離すという生物として本来してはならない無理を重ねてしまったからです。

知識を得るには、自分の足でその情報のあるところへ旅したり、人に会い、さらに書物を読むために、自ら探して歩かなければならなかったのです。

それがネット社会になって、全て目の前で可能になりました。

自分の世界との意味付けが十分に行われないまま、知識はすぐ外から近くへ舞い降りてくるようになったのです。

ここにも身体性のない「知識」の意味が出てきます。

筆者の論点の基本は、あくまでも身体性にあります。

身体を動かして掴まえてこない知識は、意味がないという立場です。

あなたはこの考え方に賛成ですか、反対ですか。

そんなことより、そこで得た知識が意味のあるものであれば、手段は問わないという考え方も当然あるでしょう。

知識は内容本位だという考え方です。

このどちらの位置に自分が立つかで、文章の内容が全く違うものになります。

極端なことをいえば、小論文ではどちらの結論でもかまいません。

論理の整合性が存在するならば、それでいいのです。

筆者の論点の後を押す形だと、スイッチを切るという論点に持ち込みやすいことは確かです。

だからといって、反対の立場をとるなということではありません。

自ら情報を遮断し、自分の身体でそれを体感していくことが、何よりも必要だという論点は、王道としては十分に通用します。

それよりもコスパのいい知識の掴み方をするべきだという論理も成立します。

小論文的にはいえば、どちらでもかまいません。

ネットを使いながら、効率を重視し、それと同時に自分の身体で体験をし続けるだけのリアルな時空間を得るという第三の道に進むことも可能なのです。

実際に書いてみてください。

自分の立つ位置をいくつかかいてみることを勧めます。

今回も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。

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