本息での稽古
みなさん、こんにちは。
アマチュア落語家、すい喬です。
今年になってもコロナの影響で高座が開けません。
1月に予定していたのもキャンセル。
2月もダメ。
4月はもしかしたら2つくらいありそうですけど。
しかし風前の灯ですね。
こういう時はせっせと稽古に励めばいいのです。
とはいえ、お客様の前でやるというモチベーションがないと、本気になって稽古をする気にもなれません。
本息でやるという言い方をプロはします。
大きな声で、きちんと最後まで噺をするにはそれだけの覚悟がいるのです。
笑ってくれる人が目の前にいないと、間も変わってしまいます。
難しい芸だなとしみじみ思いますね。
それでも4月に向けて、少しずつまたエンジンをかける気になってきました。
今までにやってきた噺を完成させていくのも勿論大切です。
しかし新しいネタを覚えるのも、同時に必要なのです。
違う視点からの気づきもありますのでね。
今までにたくさんの噺を稽古してきましたが、そのままお蔵に入っているものもたくさんあります。
聞いただけというのも多いです。
その中でひっぱりだしてきたのが今回の「お神酒徳利」です。
この噺は滑稽でもあり、人情噺の要素もいくらか入っています。
30分以上はかかるので、少し長めですが、稽古をしてみたいと思いました。
2つの系統
この落語は完全に2つのバージョンに分かれます。
有名なのは六代目三遊亭圓生が完成した型です。
大阪まで出かける噺なので、かなりの長尺ですね。
鴻池善右衛門の娘が病気で苦しんでいるのを占いで卦をたててなおすという話です。
父親の喜びはひとかたでなく、望みのものをお礼にというので、馬喰町に旅籠を一軒持たせてもらい繁盛したというめでたい落語なのです。
大阪から来た五代目金原亭馬生に教わった型から作り上げたと言われています。
神奈川の宿から大阪まで行く長い噺で、よほどの芸がないと途中でダレてしまいます。
まさに圓生に向いた噺といえるでしょう。
昭和48年に宮中の「春秋の間」でこの噺を御前口演したという伝説の落語です。
今まではもっぱらこっちばかりを聞いていました。
今回、稽古をし始めたのが別名「占い八百屋」という噺です。
三代目柳家小さんが上方で教わって東京の柳派で広めたと言われています。
現在では小さんの弟子がほぼこちらの型をあちこちで口演しています。
先日は春風亭昇太もこのバージョンでやっていました。
どちらかといえば滑稽味が強いです。
圓生の方は後半に稲荷大明神などが夢にあらわれご託宣を述べたりしますが、小さんのは面白いところだけを使って、あとは切り捨ててしまっています。
小さん型
小さん型のあらすじは次の通りです。
ご用聞きに来た八百屋が主人公です。
女中にぞんざいに扱われた腹いせに家宝の御神酒徳利を水瓶の中に隠してしまうという設定です。
そろばん占いと称して当てるフリをすると、まさにその通りの結果になります。
「そろばん占いで紛失物を探し出す先生」と持ち上げられて主人の弟の紛失物を占うために三島まで出かけることになりました。
途中の宿で事件に巻き込まれ、そこで50両のお金がどこへいったのかを占わなくてはならないことになったのです。
八百屋は初めから逃げるつもりです。
宿の離れでいかにもそれらしく振舞っていると、女中が怖くなってあらわれ、盗んだことを告白します。
母親の病気が重くて借金を頼んだが貸してくれないので、つい巾着に手を出したというのです。
これ幸いと全てを白旗稲荷のせいにして、娘を助け、宿屋の主人にはいかにもそれらしく説教をします。
お稲荷様への奉納をきちんとしないから、お怒りになって巾着を隠したのだと説明するのです。
翌日、算盤占いが見事にあたったという評判がたち、近在から紛失もの発見の依頼人が次々と現れます。
それならばというワケで、「占いの大名人」のところへ連れていくと、今度は八百屋さん本人が紛失していたというのがオチです。
小さん系はあくまでもいたずら心からお神酒徳利を水瓶の中に沈めてしまいます。
そこに信心心はあまりありません。
以前はよく買ってくれた女中がいなくなって、妙に威張り散らす人に変わったのがきっかけです。
懲らしめてやろうとしたはずみで、事件が次々と起こるという趣向です。
圓生型
一方の圓生型は馬喰町一丁目にある刈豆屋吉左衛門という旅籠が舞台です。
先祖が徳川家康から拝領した、銀の葵の紋付きの一対のお神酒徳利を家宝にしています。
大切なものなので1年に1回、大晦日の煤取りの時しか出しません。
このあたりでかなり噺の雰囲気が違うのがよくわかるのではないでしょうか。
ある年の大晦日、大掃除の最中に、台所に水をのみにきた番頭の善六がひょいと見ると、大切なお神酒徳利が流しに転がっています。
入れ物がないので、そばの大きな水瓶に放り込んで蓋をしてしまいます。
番頭はそれっきり忘れてしまったのです。
善六は帰宅して、突然水瓶のことを思い出します。
すぐ報告をと思ったものの、言い出せません。
しっかり者の女房が知恵を授けました。
女房の父親がたまたま易者をしているので、それに引っかけてやればいいというのです。
商売柄、算盤を使う易のふりをして言い当てて見せたらと知恵をつけました。
善六は店に戻り、さっそく女房に言われた通り、いいかげんに易をたてます。
水瓶の蓋を取って徳利を見つけ出したので主人は大喜びです。
その後は鴻池の番頭に途中の宿で出会うという噺につながります。
こちらは信心心に満ちたストーリーで、重厚感があります。
どちらにもそれぞれの味わいがあって、甲乙つけがたいですね。
小三治の話術
色々と悩んだ末に、小三治師の口述筆記を元にして現在覚えています。
最初の頃は女中さんのつっけんどんな言い方があまり好きではありませんでした。
何度もやっているうちにきつくなりすぎないように注意しながらやっています。
笑いが多いのはなんといっても途中の旅籠で泥棒騒ぎがあるところです。
逃げる気になっている八百屋さんは、離れの裏は街道につながっているかとまず聞きます。
占いをする時のお供えとして、握り飯を用意しろなどとおかしな要求を次々とします。
さらにろうそくに提灯、長ばしご、わらじが3足、小粒のお金。
お供えの品物があまりに突飛なので、つい笑いがもれてしまうのです。
ウソから出た誠という言葉があります。
いつの間にか、易の大名人になった八百屋が、病気の母親に薬を買ってやりたいという女中の心に感じるところがあるのをさりげなく表現するところが大切です。
ここで八百屋さんの人情がさらに増幅されるのです。
その分、おかしさも増します。
落語は人間を描く芸です。
弱いところ、やさしいところを丁寧に描写していくことで、人間に奥行きがでてくるのでしょう。
噺をするのは本当に難しいと思いますね。
それだけにまた楽しいのです。
今回も最後までおつきあいいただきありがとうございました。