自意識過剰
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
太宰治というのは不思議な作家ですね。
周囲の人にさまざま迷惑をかけながら、人妻と入水自殺までし、それでもいまだに多くの読者に愛されているのです。
確かに文章力があります。
言葉を縦横自在に操ることができる人です。
独特の感性を持った作家だと思います。
教科書にも数多くの小説が取り上げられています。
中学校では『走れメロス』、高校では『津軽』「富嶽百景』『女生徒』『桜桃』などでしょうか。
作品を読んでいると、非常に多面的な要素を持った小説家だということがわかります。
彼自身も語っているように道化的な要素も持ち、それでいて他人に甘えることも上手な人でした。
シニカルに世の中を見ながら、愛情には飢えていたのかもしれません。
成育歴をみると、そのことがよくわかります。
名家に生まれたにも関わらず、愛情には恵まれませんでした
母親の愛をあまり受けられなかったことが、よほど寂しかったのでしょう。
『津軽』については、かつて記事にしたことがあります。
子守のたけさんと、運動会で出会うシーンを読めば、そのことがよくわかるはずです。
最後にリンクを貼っておきましょう。
今回は代表作の1つ『女生徒』の持つ味わいを吟味します。
この作品が好きだという人も多いようです。
ぼく自身、授業で扱ったのは1度だけです。
読後感は一言ではいえません。
女子の生徒たちは非常に興味を持ってくれました。
彼女たちの自意識と共鳴する部分があったのでしょう。
いわゆる日記風の書き方をした特異な小説です。
『斜陽』などとの類似性についてもよく語られています。
太宰はなぜこのような作品を書こうとしたのか。
その理由を探ってみると、なかなか興味深い事実が明らかになります。
内容をチェックしながら、少し深堀りしてみます。
女性読者の存在
この小説が生まれたのは1938年におこった偶然がキッカケです。
女性の読者が太宰の元に日記を送ってきました。
当時19歳だった有明淑(ありあけしず)という人が提供してくれたのです。
おそらく彼に託せば、作品のヒントにしてくれるだろうと考えたのでしょう。
太宰のファンだったといわれています。
こういう話はいくつか聞いたことがあります。
夏目漱石のところに女性がやってきて、自分の半生を小説にしてくれと頼みこむ話を読んだことがあります。
『硝子戸の中』がそれです。
さて、この『女生徒』という作品は1人の若い女性が朝、起きてから夜、眠りにつくまで一日を独白の形で綴っています。
思春期の少女が持つ自意識の揺らぎがみごとに描き出されています。
さらにいえば、厭世的な心理といえるものも、あちこちに散りばめられています。
父親を失ったばかりの彼女は、愛情を母親だけに向けることの悲しさを実感として持っています。
その心理状態が非常に細かいタッチで描かれ、時折スノッブの表情もみせます。
身の回りのものに対しての嫌悪感と哀惜の心が交錯しているのです。
それだけに読んでいるうち、その世代の女性の持つ敏感さに感心してしまいます
この作品はかなり以前に書かれたものなので、今とは風俗がかなり違っているのは当然です。
それでも若い世代の深層にある気分というのは、どこかに似たものがあるような気がします。
たとえば、こんな一節が出てきます。
これはもしかすると現在にも通用する感覚ではないでしょうか。
現在にも通用する感覚
「みんなを愛したい」と涙が出そうなくらい思いました。
じっと空を見ていると、だんだん空が変ってゆくのです。
だんだん青味がかってゆくのです。
ただ、溜息ばかりで、裸になってしまいたくなりました。
それから、いまほど木の葉や草が透明に、美しく見えたこともありません。
そっと草に、さわってみました。
美しく生きたいと思います。
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だけど、やっぱり眼鏡は、いや。
眼鏡をかけたら顔といふ感じが無くなってしまふ。
顔から生れる、いろいろの情緒、ロマンチック、美しさ、激しさ、弱さ、あどけなさ、哀愁、そんなもの、眼鏡がみんな遮ってしまう。
それに、目でお話をするといふことも、可笑しなくらい出来ない。
眼鏡は、お化け。
自分で、いつも自分の眼鏡が厭だと思ってゐる故か、目の美しいことが、一ばんいいと思はれる。
鼻が無くても、口が隠されてゐても、目が、その目を見てゐると、もっと自分が美しく生きなければと恩はせるやうな目であれば、いいと思ってゐる。
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この感覚は、非常に詩的なものです。
眼鏡がおしゃれアイテムの1つになっている現代でも、通じる要素があるのではないでしょうか。
川端康成の批評
この作品が彼の代表作になったのは、川端康成に認められたことも大きいようです。
川端は次のように書きました。
「この女生徒は可憐で、甚だ魅力がある。少しは高貴でもあるだらう。
作者は「女生徒」にいわゆる「意識の流れ」風の手法を、程よい程度に用いている。
それは心理的といふよりは叙情的に音楽じみた効果をおさめてゐる。」
川端の持っている女性観にうまくはまったという感じがしますね。
彼はこういう詩的でコケットリーにあふれた女性を好んだのではないでしょうか。
主人公の女生徒はお茶の水にある学校に通っています。
その通学のバスや電車内の様子なども描写されているのです。
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パスの中で、いやな女のひとを見た。
襟のよごれた着物を着て、もじゃもじゃの赤い髪を櫛一本に巻きつけてゐる、手も足もきたない、それに男か女か、わからない様な、むっとした赤黒い顔をしてゐる。
それに、ああ、胸がむかむかする。
その女は、大きいおなかをしてゐるのだ。
ときどき、ひとりで、にやにや笑ってゐる雌鶏。
こっそり、髪をつくりに、ハリウッドなんかへ行く私だって、ちっとも、この女のひとと変らないのだ。
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バスを「パス」と呼ぶのは、この時代の特徴のようです。
思春期の少女の潔癖主義とでも呼べるようなものが、匂い立っています。
さらにいえば、成熟拒否の感情です。
非論理的な感情が交錯して、1つの文章になっていく点はさすがです。
『女生徒』と並んでよく言われることが、『斜陽』との共通点です。
語り手がいずれも最初から父親をなくしている点です。
愛情の問題を凝縮するために、父性愛を利用するという方法は、太宰の得意とするところでした。
ぜひ、この機会に2作を読み比べてみてください。
最後に『女生徒』の中で主人公が呟く言葉があります。
リアリティがありますね。
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明日もまた、同じ日が来るのだろう。
幸福は一生、来ないのだ。
それは、わかっている。
けれども、きっと来る、
あすは来る、と信じて寝るのがいいのでしょう。(中略)
幸福は一夜おくれて来る。
ぼんやり、そんな言葉を思い出す。
幸福を待って待って、とうとう堪え切れずに家を飛び出してしまって、そのあくる日に、素晴らしい幸福の知らせが、捨てた家を訪れたが、もうおそかった。
幸福は一夜おくれて来る。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。