言いあてし薬師
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は『花月草紙』を取り上げます。
松平定信のことはご存知ですね。
江戸時代、寛政の改革を行い、幕府財政の再建の為に、大胆な財政緊縮政策を行った老中です。
退隠後は学問、文筆にまかせ心に浮かんだことを自由に書きました。
それが『花月草紙』なのです。
和漢の学に通じた松平定信の見識と学問の素養がうかがえる内容ばかりです。
その中から「言いあてし薬師(くすし)」を取り上げてみましょう。
ぼく自身、高校で教えたことはありません。
教科書には全く載っていません。
擬古文で書かれているため、内容の理解は意外と楽です。
しかしそこで語られていることを実感するのは、そう容易なことではありません。
人間は実際に苦しい目にあってみないと、他人の助言や忠告のありがたみが分からないものです。
そうした人間の心理がここでは語られています。
あらすじは次のようなものです。
2人の男が登場します。
1人目の男は医者に病気を予見されたものの、信用せずに放っておいたら、本当に病気になってしまいます。
そこであわせる顔もなく、他の医者にかかって治すことになったという顛末を示したものです。
2人目の男もその医者に病気を予見され、疑いながらも薬を飲んで病気にはならなかったという話なのです。
しかしありがたく思うことなどは微塵もありませんでした。
この話の意味がわかりますか。
病気を予見した名医
話のポイントは次の通りです。
病気を予見してくれた名医に背を向け、まぐれ当りの薬を与えた医者を命の恩人と思い込む男のパターンが1つ目。
同じく病気を予見した名医の薬を飲んでおきながら、その効能を無視して自分の予想通り病気にならなかったと主張する男の行動が2つ目です。
話のテーマは「人間の持つ視野の狭さ、先見を持つ事や先見を持った者に従うことの意味」です。
聡明な人であれば素直に先見を持った人に従い、そのことによって難を逃れることが出来たことに気づくはずです。
しかしそれが容易にはできないところが、人間の哀しさでしょうか。
人間というものは専門家の忠告であっても、つい軽くみて素人判断をしてしまいがちです。
本当に危機に直面しない限り、対策を立てようとはしないのです。
よくある話だと言ってしまえば、それまでですが、ここにはたくさんの教訓が隠されています。
もう少し詳しく説明をしましょう。
ある医者が男に病気になると予告しましたが、男は無視して病気になりました。
結局あわせる顔がないと思い、別の医者にかかったのです。
その医者もいろいろ治療をしたものの、うまくいきませんでした。
そこで試しに調合した薬を飲ませたところ、たまたま病気がなおりました。
男は家財を投げ出しても恩に報いたいと思い込みます。
次に、別の男が最初の予告をしてくれた名医にあなたは病気になると宣告されました。
勧められた薬を他人事のように飲みましたが、そのおかげで病気にならずにすんだのです。
それでも男は、薬が無駄だったとしきりに呟きます。
人間はよほどの危険な目にあわない限り、対策を立てようとはしないもののようです。
勧められたから飲んでやったとする、恩着せがましい態度が悲しいですね。
さらにその薬の効果を疑うありさまにいたっては、もう言葉もありません。
本文
ある薬師が、「君は必ず、来ん秋のころ何のいたづきにかかり給はん」と言ふをむづかりて、「いかでかさることあらん」と、秋までは言ひぬ。
つひにいたづきにかかりてければ、言ひあてし薬師に会はんもおもてぶせなりとて、よその薬師招きてけり。
さまざま薬与へたるがしるしも見えず、初めのほどはうちの損ねしなるべしとて、うちととのふる薬なりければ、
胸のあたりいよいよ苦しく、ものも身入れねば、薬師も心得てその薬はやめつ。
こたびは汗にとらんとしてもしるしなく、下さんとすれば、腹のみ痛みていよいよ苦し。
せんかたなくて、試みにふと調ぜし薬、その病にあたりやしけん、飲み下すより胸のうち心地よく、つひにその病癒えにけり。
命助けし人なりとて、家傾けても報はまほしく思ひしとなり。
さるに、「来ん秋は、かならずこの病出づべし。この薬今よりのみ給へ」と言ふを、いま一人の男
「いかでさあらん。されどさ言ひ給はば飲みて参らすべし」とて、人ごとのやうに飲み居たるが、つひにその病も起こらず、常に変わりしことなかりしかば、
「さればこそかくあるべしと思いしを、あの薬飲までもあるべきものを」と言ひしとや。
あるべき物を」と言ひしとや。
現代語訳
ある医者が「あなたは必ず秋の頃に何かの病気にお罹りになるだろう」と言うのを不快に思って、「どうしてそんなことがあるだろうか」と気にもとめませんでした。
しかしとうとう病気になってしまったので、言い当てた医者に会うのも恥ずかしいと思い、他の医者にかかったのです。
ところが他の医者のくれた薬を飲んでも全く効果がありません。
最初の頃、その医者は内臓の病気だろうという見立てをし、それにきく薬を処方しました。
しかし胸の辺りがさらに苦しそうなことが外からも分かったので、その薬は止めました。
汗を取ろうとしても効果がなく、下剤を飲ませたところ、腹痛がしてもっと苦しそうなのです。
そこで医者は仕方なく、何気なく作ってみた薬を飲ませたところ、その病いに効果があったのでしょうか。
すぐに胸がすっきりしたようで、とうとうその病気が治ったのです。
患者はその医者に命を助けてもらったと信じ、財産を使い果たしてもいいと思うほどになりました。
最初に病気を予言した名医は別の男にも「この秋には必ずある病気にかかる兆候があります。この薬を今からお服用ください」と言いました。
そこで男は、「どうして病気になったりするでしようか。けれどもそうおっしゃるなら飲みましょう」と言って他人事のように飲んでいました。
結局、その病気を発病しないで、いつもと変わったことがなく健やかに過ごせたのです。
男は「だから病気にならないことと思っていたのに。あの薬は飲まないで良かったはずです」と強気に口走ったとかいうことです。
人間というのはどういう生き物なんでしょうか。
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いくら知恵のある人でも、なにかよほど困ったことがおきない限り、当座の間に合わせで済ませてしまうものです。
自分だけは大丈夫とだと信じたいのでしょう。
それだけ日常性というものは底堅いのかもしれません。
しかしそれが実に浅い考えだということに気づいたときは、もう遅いのです。
どうしたらいいものなのでしょうか。
家財を投げだしてもいいと言い出す男と勧められた薬を他人事のように飲む男との差は、実はそれほど遠く離れてはいないのかもしれません。
自分の周囲を見回してみればよくわかります。
浅知恵のなせるわざでしょうね。
似たようなことが周囲にいくつもあるような気がして仕方がありません。
少し考えてみてください。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。