【宇治拾遺物語】夢盗人の話は現代にも通じるリアルさ満点

夢占いは今も

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、ブロガーのすい喬です。

今回はちょっと夢の話をさせてください。

皆さんは正夢を信じますか。

亡くなった人がその直前、寝ていた自分の枕元に立ったとか。

夢にみたことが、後日全く同じように起こるとか。

夢にまつわるいろんな話があります。

これほどに科学が発達した現代でも、夢判断はずっと続いています。

たくさんの人が自分のみた夢の意味を知りたくて、占い師の元を訪ねるのです。

けっして大袈裟な話ではありません。

なかには国の政治を夢で判断していたという政治家の噂もあるくらいです。

それくらい夢と人間の間は近いのです。

夢については20世紀以降、大脳生理学と精神分析学の両面から解明が進んでいます。

有名なフロイトの名前は聞いたことがあるのではないでしょうか。

夢というものは最近までただ不可思議な代物だったのです。

夢にまつわる物語はたくさんあります。

この夢占いの話もその1つで、神仏の夢のお告げが古典文学にはよく登場します。

そういうものを根本から否定できるのかといわれると、ちょっと首をかしげてしまいます。

夢のお告げや占いを信じることがあるとしたら、それは夢の持つ予言性にではなく、それを信じる人間の側の問題なのかもしれません。

ところで夢を盗むなどということが本当にあるのでしょうか。

もしかしたら本当かもしれないと思わせるこの物語も、案外人間の深層心理をうまく文章化したものだといえますね。

夢は不思議

昔は本当に謎そのものだったでしょうね。

なぜ夢を見るのかという脳のメカニズムも解明されていませんでした。

五臓の疲れだとよく言われたものです。

だからこそ、人はその意味を知りたかったのです。

夢に出てきた人が自分のことを思ってくれていると信じたかったのでしょう。

今のように電話やメールもなかった時代です。

遠く離れた人を思い出す手段は夢だけだったのです。

そう考えると、ちょっとロマンチックですね。

夢にまつわる物語はたくさんあります。

この文章は「夢盗人」の話として大変に有名です。

『宇治拾遺物語』の13巻に出てきます。

本文

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昔、備中国に郡司ありけり。

それが子に、ひきのまき人といふありけり。

若き男にてありける時、夢をみたりければ、「あはせさせん」とて、夢ときの女のもとに行きて、夢あはせて後、物語してゐたるほどに、人々あまた声して来なり。

国守の御子の太郎君のおはするなりけり。

年は一七八ばかりの男にておはしけり。

心ばへはしらず、かたちはきよげなり。

人四五人ばかり具したり。

「これや夢ときの女のもと」と問へば、御供の侍、「これにて候ふ」と言ひて来れば、まき人は上の方のうちに入りて、部屋のあるに入りて、穴よりのぞきて見れば、この君、入り給ひ、「夢をしかじか見つるなり。いかなるぞ」とて、語り聞かす。

女、聞きて、「よにいみじき夢なり。必ず大臣までなりあがり給ふなり。返す返すめでたく御覧じて候ふ。あなかしこあなかしこ、人に語り給ふな」と申しければ、この君、うれしげにて、衣をぬぎて、女にとらせて、帰りぬ。

その折、まき人、部屋より出て、女にいやふう、「夢はとるといふ事のあるなり。この君の御夢、われらにとらせ給へ。国守は四年過ぎぬれば返りのぼりぬ。我は国人なれば、いつもながらへてあらんずるうへに、郡司の子にてあれば、我をこそ大事に思はめ」

と言へば、女、「宣はんままに侍るべし。さらば、おはしつる君のごとくにして、入り給ひて、その語られつる夢を、露もたがはず語り給へ」と言へば、まき人悦びて、かの君のありつるやうに、入り来て、夢がたりをしたれば、女おなじやうにいふ。

まき人、いとうれしく思ひて、衣をぬぎてとらせてさりぬ。

その後、文をならひ読みたれば、ただ通りに通りて、才ある人になりぬ。

おほやけ聞こしめして、試みらるるにまことに才深くありければ、唐土へ、「物よくよくならへ」とてつかはして、久しく唐土にありて、さまざまの事どもならひ伝へて帰りたりければ、帝、かしこき者におぼしめして、次第になしあげ給ひて、大臣までになされにけり。

されば夢とることは、げにかしこしことなり。

かの夢とられたりし備中守の子は、司もなきものにて止みにけり。夢をとられざらましかば、大臣までもなりなまし。

されば、夢を人に聞かすまじきなりと、言ひ伝へたり。

現代語訳

昔、備中国に郡司がいました。

その子に、ひのきまき人という者がいました。

若い頃に夢を見たので、判断をしてもらいに夢解きの女のもとを訪れ、夢合わせをしていたところ、話をしているさなか、大勢の人ががやがやとやって来ました。

国主の長男が訪ねていらしたのです。

年は十七・八歳くらいの男性でした。

性格などはわからないものの、容姿はとてもよかったのです。

従者を四・五人ほど連れていました。

夢解きの女はここかと訊き、供の侍が「さようでございます」と答えると、こちらへやって来たので、まき人は奥へ行き、そこにある部屋に入って穴から覗いて見ていると、この君が入ってきて「こんな夢を見たんだがどういうことか」と語り始めました。

女がそれを聞いて、「世にもすばらしい夢です。必ずや大臣にまで出世なさいます。返す返すもおめでたい夢をご覧になりました。くれぐれも人にはお話になりませぬよう」と言うと、この君は嬉しそうに衣を脱ぎ、女に与えて帰っていきました。

その後、まき人は部屋から出て女に向かい 「夢は取れるという話を聞いたことがあります。この君の夢を私に取って下さい 。国司は四年勤めれば都へ帰ってしまう。

しかし、私はこの国の者、ここで暮らしている上に郡司の子だから、私を大事に思ってほしいのです」と言うと、女は 「お言葉どおりにいたしましょう 」

それでは、いらした君と同様にお入りになり、語られた夢を一言も違わずお話下さいと言うので、まき人は喜び、かの君と同じ動作で部屋へ入り、夢語りをすれば、女もまた同じように語りました。

Free-Photos / Pixabay

まき人はとても嬉しく思い、衣を脱いで渡して帰ったのです。

その後、学問に励み、どんどん実力をつけ、才能のある人となりました。

噂は朝廷にも届き、試験をされると、実に知識が豊富だったので、唐へ物事をよく学んでこいと遣わされ、長く唐にいて、さまざまなことを学びわが国に伝えたので、帝に知識人として評価され、次第にその位を上げ、大臣にまで上りました。

このように、夢を取ることは実に大変なことなのです。

夢を取られてしまった備中守の子は、官位も得ずに終わってしまいました。

夢を取られなければ、大臣にまでなれたはずだったのです。

それゆえ昔から夢を人に聞かせてはならないと言い伝えられているということです。

説話の命

『宇治拾遺物語』は197編の説話によって成り立っています。

作者はわかりません。

鎌倉時代初期の13世紀前半とみられています。

貴族説話、世俗説話、民話などが軽妙な文章で綴られているのです。

「こぶとり爺さん」の話などが代表でしょうか。

「地獄変」の原作などでも有名です。

夢は夢のままにしておくというのがきっと大切なんでしょうね。

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誰かに話してしまうと、もしかしたら盗まれちゃうかもしれません。

みなさん、くれぐれもご用心を。

今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

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