歴史物語『大鏡』
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は歴史物語『大鏡』の冒頭について語ります。
この作品は、随分教科書で扱います。
ストーリー性があり、読んでいて楽しいです。
藤原摂関政治をつくりあげた道長の豪胆ぶりも愉快です。
『大鏡』(おおかがみ)は、平安時代後期の白河院政期に成立したとみられる紀伝体の歴史物語です。
紀伝体とは個人の伝記を重ねて、一代の歴史を構成するものをいいます。
時代を追うごとに書いていく編年体と違って、個人の動きをクローズアップするために、非常にドラマチックな構成になっているのです。
「鏡もの」というのは歴史を明らかにする鏡という意味で名づけられました。
『大鏡』はいわゆる「四鏡」の最初の作品です。
『大鏡』『今鏡』『水鏡』『増鏡』という書名を覚えておいてください。
非凡な歴史観がうかがえる問答体の書です。
作者はわかっていません。
男性の官人であったという説が有力で、当時の政権中枢近くにいた人物であろうと推測されます。
時代は文徳天皇が即位した嘉祥3年(850年)から後一条天皇の万寿2年(1025年)に至るまでの14代176年間の宮廷の歴史を描いています。
主な話題は藤原道長の栄華です。
この本がユニークなのは全体の構成そのものです。
大宅世継(190歳)と夏山繁樹(180歳)という2人の老人が、雲林院の菩提講で語り合うという体裁をとっています。
それを若侍が批評するという対話形式で書かれているのです。
雲林院の菩提講
時は万寿2年(1025)のことでした。
京都紫野の雲林院の菩提講で2人の老人が出会います。
菩提講というのは、極楽往生のために「法華経」を説き、念仏する会のことです。
2人の古老はそれぞれの見聞や思い出をひたすら語りあいます。
その内容が全て筆記され、登場人物の様子が描かれるのです。
2人の設定がとにかくユニークです。
この部分を読んでいるだけでも、楽しい気分になれますね。
そこへもってきて、藤原道長の豪胆な様子が次々と語られるのですから、読んでいた人たちは、さぞや心地よく、楽しかったのではないでしょうか。
道長といえば、現在NHKで放送されている番組の主人公です。
紫式部との関係にはかなりの脚色もありますが、それも含めて大いに関心が広がっていることは間違いありません。
彼の書いた『御堂関白記』が国立博物館にあります。
時々、展示されるので、興味のある人はぜひ足を運んでください。
非常に細かな字でびっしりと書き込まれた日記を読んでいると、ただ気が強いだけの人ではなかったことがよくわかります。
豪胆な中にも繊細さを秘めた人だったのでしょう。
NHKのドラマに描かれているような、紫式部との恋愛がどのくらいあったのかは、謎です。
個人的には、少し脚色が強すぎると感じます。
当時の身分制の中では、あまりに突飛な場面が多すぎるのです。
さっそく冒頭の部分を読んでみましょう。
本文
先つ頃、雲林院(うりんいん)の菩提講(ぼだいこう)に詣(もう)でてはべりしかば、例人よりはこよなう年老い、うたてげなる翁(おきな)二人、嫗(おうな)といきあひて、同じ所に居(い)ぬめり。
「あはれに、同じやうなるもののさまかな」と見はべりしに、これらうち笑ひ、見かはして言ふやう、
「年頃、昔の人に対面して、いかで世の中の見聞くことをも聞こえあはせむ、このただ今の入道殿下の御有様をも申しあはせばやと思ふに、あはれにうれしくも会ひ申したるかな。
今ぞ心やすく黄泉路(よみじ)もまかるべき。
思(おぼ)しきこと言はぬは、げにぞ腹ふくるる心地しける。
かかればこそ、昔の人は、もの言はまほしくなれば、穴を掘りては言ひ入れ侍(はべ)りけめとおぼえはべり。
かへすかへすうれしく対面したるかな。
さてもいくつにかなりたまひぬる」と言へば、いま一人の翁、
「いくつといふこと、さらに覚えはべらず。ただし、おのれは、故太政の大臣貞信公(ていしんこう)、蔵人(くろうど)の少将と申しし折の小舎人童(こどねりわらわ)、大犬丸(おおいぬまろ)ぞかし。
ぬしは、その御時の母后(ははきさき)の宮の御方の召使、高名(こうみょう)の大宅世継(おおやけよつぎ)とぞ言ひはべりしかしな。
されば、ぬしの御年は、おのれにはこよなくまさりたまへらむかし。
みづからが小童にてありし時、ぬしは二十五六ばかりの男(おのこ)にてこそはいませしか。」と言ふめれば、
世継、「しかしか、さかべりしことなり。さてもぬしの御名はいかにぞや」と言ふめれば、
「太政大臣殿にて元服つかまつりし時、『きむぢが姓はなにぞ』と仰せられしかば、「夏山となむ申す」と申ししを、やがて、繁樹となむつけさせたまへりし」など言ふに、いとあさましうなりぬ。
現代語訳
昔なじみの人に対面して、どうにかして今まで世の中の見聞きしてきたことをお話し合い申し上げたい、
現在の入道殿下(藤原道長)のご様子をも、語り合い申し上げたいと思っているときに、感慨深くうれしいことにお会い申し上げることができました。
今こそ安心して冥途へも参ることができます。
思うことを口に出して言わないのは、本当に不快な気持ちがするものですからね。
全くその通りです。
昔の人は何か言いたくなったら、穴を掘ってそこへ叫んだのでしょう。
返す返すも、お目にかかれて嬉しいです。
それはそうと、あなたたちはいくつにおなりになりましたか。」と訊くと、
もう1人の老人が、「何歳かということは、少しも覚えておりません。
ただ、私は、故太政大臣貞信公が、蔵人の少将と申していた時の小舎人童だった大犬丸です。
あなたはその宇多天皇の時代の皇太后様の召し使いで、名高い大宅世継というお方ですね。
そうであれば、あなたのご年齢は、私よりもずっと上でいらっしゃるはずです。
私が小さい子どもであった時、あなたは二十五、六歳ほどでいらっしゃった。」と言うと、
世継は、「そうそう、そうでございます。ところで、あなたのお名前は何とおっしゃいますか」と言うと、
太政大臣殿のもとで元服いたしました時、『おまえの姓は何というのか』と大臣に訊かれたことがあります。
そこで「夏山と申します」と申し上げたところ、大臣殿がそのまま夏山にちなんで繁樹とおつけになったのです。」などと言うのです。
たいへん昔の話なので、話を聞いている者はたいそう驚きあきれてしまいました。
紫野雲林院
残念なことに、ぼくはこのお寺を訪ねたことはありません。
付近までは散策はしたことがあるものの、誠に残念です。
この寺院は『今昔物語』の舞台にもなっています。
『源氏物語』のなかにも登場するのです。
「賢木」の巻には光源氏が出家しようと、この雲林院に籠もるというシーンがあります。
ここで天台六十巻を読みすすめたのです。
亡き母・桐壺の更衣の兄も籠って修行しました。
紫式部の墓所も、この寺の近くあったという記録もあります。
清少納言もこのお寺を題材にして文章を纏めています。
しかしやがて寺の存在も忘れ去られていきました。
時の流れは容赦ありません。
門前には、歌人西行の詠んだ歌が記されています。
これやきく雲の林の寺ならん花を尋ねるこころやすめん
機会がありましたら、『大鏡』のことを思い出してください。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。