【恐怖とは何か・岸田秀】自我を崩壊させる不安の塊りが怖さを助長する

学び

恐怖とは何か

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回はユニークな評論を紹介します。

精神分析学者として有名な岸田秀氏の文章です。

最もよく知られた本は『ものぐさ精神分析』。

考え方の根本は「人間は本能の壊れた動物である」とするものです。

独自の唯幻論を長い間、展開してきました。

今回の内容は、何が怖いのかということです。

世の中にはいろいろな種類の人間が存在します。

彼は幾つかのパターンの中から「怖がる人」というジャンルを考えました。

どうして、人は恐怖感を持つのか。

その背景を精神学的に分析してみようとしたのです。

人間が感じる本質的な恐怖は自我に関わるものだというのが、彼の根本的な考え方です。

理知的に考えつめても、全く理解できないことが、最大の恐怖の源だというのです。

一見害のないようなことでも自我に悪影響を及ぼすのならば、それは恐怖となるのです。

不安定な状態が続けば、自我は脅かされます。

この視点をさらにつきつめると、現実の危険に対応していない場合もありえます。

脳内で想像する事象の中に、恐怖の源がある場合もあります。

かつて落語家の三遊亭圓朝は怪談噺をたくさん書きました。

その中に『真景累ヶ淵」(しんけいかさねがふち)というタイトルの作品があります。

この題名の最初にある「真景」は「神経」そのものだといわれています。

つまり人間は、そこにないものでも神経の作用で想像することができるのです。

そして恐怖心を抱く。

なぜそのようなメカニズムが働くのかということが、もっとも興味深いのです。

評論の一部を読んでみましょう。

本文

人間に本能的恐怖なるものが存在するかどうかは知らないが、人間が感じる恐怖のほとんどは自我に関わるものである。

すなわち、人間は自我に組み込めないもの、自我の安定を乱すもの、自我を崩壊させる危険のあるものを恐れる。

したがって、人間の感じる恐怖は必ずしも現実の危険に対応していない。

人間の最も大きな恐怖の一つである死の恐怖を考えてみよう。

動物だって、自分より強い他の動物が襲いかかってきたというような現実に差し迫った死の危険に恐怖を感じて必死に逃げるであろうが、動物は死そのものには恐怖を持っていないであろう。

人間は、現実に何の危険も差し迫っていなくても、自分がいつかは死ぬであろうということを恐れる。

たいていの人間にとって、死とは自我の崩壊どころか消滅を意味するからである。(中略)

人間は必ずしも、危険なこと、いやなこと、苦痛なこと、不幸なこと、好ましくないことだけを恐れるわけではない。

なんの害もないことでも怖ろしいことは怖ろしい。

ひとえに自我の安定が問題なのである。(中略)

そもそも、人間が神を発明したり、科学を創ったりして世界の成り立ちをあれこれ説明するのは、自我の足場であるこの世界が人間の理解し、納得できる一定の法則に支配されていると信じていなければ、不安で怖ろしくて生きてゆけないからである。

我々の理解を超えた新しい現象や奇妙な事件が起きると、我々が必死になってその説明を求めるのは、不安と恐怖から逃れるためである。(中略)

この人生で我々は退屈するか不安な怖ろしい目に遭うかの二者択一に常に直面しているのである。

退屈しないでかつ安定しているという時間を持つことは不可能なのである。

それが自我というものを作り上げた人間の宿命である。

死は永遠の謎

動物は死そのものに恐怖を持っていないという事実は、容易に想像できますね。

人間が厄介なのは、想像することができてしまうからです。

現実に差し迫っていない死を、容易に頭に思い浮かべられるのです。

自我が崩壊するなどというレベルの話ではありません。

世界そのものが消滅してしまうのです。

しかしこれを武士道などというレベルにまで昇華してしまうと、どうなるでしょう。

「武士は死ぬこととみつけたり」という言葉もあります。

自己の消滅よりも、「武士道」の完成という共同的な幻想があれば、それはむしろ誇らしいものと化すのです。

ここが1番厄介な話ですね。

第2次世界大戦の時も神風特攻隊などという存在がありました。

米軍の兵士にとって、自分の命を犠牲にして、敵陣に突撃するなどということは、常軌を逸した行動にうつったのです。

それと同じことが、今でも起こっています。

自爆テロがそれですね。

イスラム原理主義者などは、爆弾を抱えたまま、政府要人や一般人のいる場所にあらわれます。

2001年9月に起こったアメリカ同時多発テロなども、似た考え方からくる行動です。

ニューヨークの世界貿易センタービルには、1万7千人の人が働いていました。

アルカイダによる攻撃はかなり以前から計画されたものであることが、後に判明したのです。

いずれにしても、自我が不安定になる状態が、1番怖い瞬間だと言えます。

逆にいえば、信念をもっていさえすれば、死ぬことはそれほどの恐怖ではないのかもしれません。

このあたりが、精神分析学者にとっては、最も興味のあるところともいえます。

怪談噺の怖さ

三遊亭圓朝の作品には、『怪談牡丹灯篭』という作品もあります。

いわゆる幽霊が出てくる作品です。

なぜ幽霊が怖いのか。

これも考えてみると、面白いですね。

わかりやすくいえば、恐ろしい理由は、死んだものが再生するからです。

1度死んだならば、生き返らないというのが自然の秩序です。

それゆえに、自我は安定を保たれてます。

しかしそれが脅かされるとなったらどうでしょう。

『牡丹灯篭』の例でいえば、お露という女性が、萩原新三郎という浪人者にとりついて殺してしまうという話です。

現実にはありえないと信じている現象が、裏切られます。

それが怖いのです。

人間は基本的に科学で世界の成り立ちを語ってきました。

それが近代の精神です。

しかしそれが通らない現実を見せられたり、聞かされたりすることで、恐怖感を高めます。

ところが、この怖ろしさが、同時に人生の退屈さを紛らわす作用にもなるのです。

俗にいう、怖いもの見たさという現象です。

自我の範囲を極力狭くしてそれ以外を排除すれば自我は非常に安定します。

しかし、その次の瞬間から退屈を感じるようになるのです。

そこから再び抜け出して、不安と恐怖と刺激に身を置きたいと願うのも、また人間なのです。

誰もが精神の安定を望んでいます。

ところが安定した途端、不安で未知なものを再び探し始めます。

爽快な解放感を求め始めるのです。

三遊亭圓朝の人気は、当時大変なものでした。

人間は厄介な生き物です。

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人生はその繰り返しだと岸田秀が言う発言の真意も、そこにあるワケです。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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