2014年京都大学入試問題
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
入試問題を調べていると、かたい評論の中に混じってとんでもなくみずみずしいエッセイや随想などにふれることがあります。
そうした文章からは身体の中に、清冽な水が流れていくような心地よさを感じます。
大庭みな子の「創作」というタイトルの随筆もそうしたものの1つです。
御存知でしょうか。
現在では、ほとんど読まれることがない作家かもしれません。
15年ほど前に亡くなりました。

『三匹の蟹』で芥川賞を受賞したのです。
いわゆる内向の世代に属する作家の1人です。
多文化共生、フェミニズムといった問題を集中的に取り上げました。
評伝『津田梅子』は今でも、読まれています。
エッセイ「創作」はどのようにして作家がことばを紡ぎ出すのかという、創造の秘密について書いた文章です。
彼女の文章は、漱石の『夢十夜』を想わせます。
小説の中で、漱石は運慶の話を持ち出し、木の中に埋まった仁王像を掘り出す話をしています。
彫るという作業の本質をついた作品です。
大庭みな子のエッセイにはこれと共通するテーマが示されています。
おそらく、あまり読む機会はないと思いますので、文章をそのまま掲載します。
「創作」
嵐にゆれ動いている木や、波立っている海を見て、あの木のゆれ方はあまり良くないとか、波の形がなっていないとか批評する人はいない。
同様に優れた作品は、作家の手つきが見えないままに、読者をのめり込ませる。
傑作はつらなり合うものが動いて、吹く風に似た音をたてる。
創作という言い方があるが、作家は何もないところから何かを創り出すわけではない。
自分の力で創り出すというよりは、思わず知らず、えたいの知れない力に押されてそうなってしまう時、その作品は比較的まともなものである。
また、べつの言い方をすれば、創作とは、何かを創り出すというよりは、そこにもともと埋まっているものを掘り出す作業なのだ。
もともとそこにないものは、いくら一生懸命掘っても突き当たらないし、下手な掘り方をすれば、像の形が欠けたり壊れたりすることもある。
つまり、自分の掘り当てたい像はどこに埋まっているか、また、どのような掘り方をすればよいのか、というようなことが、作家の作業なのだろう。
わたしはいつのころからか、文学は、生活の中にしか埋まっていないと思うようになった。
「生活の中にかかる虹の橋づめに埋まっている金の壺がわたしの文学である」。
恋人たちが輝く目とバラ色の頬で微笑むとき、彼らは虹の橋づめに立っているのだし、うづくまってすすり泣く幼児の足の下にも金の壺は埋まっている。
怒る人、闘う人、不思議な衝動にかられて立ちすくんでいる人、そうした人の背後には虹の橋がかかっている。

この人間社会で、言いたいことを言えずに、口ごもって生きている人びとが、何かのときにふと洩らしてしまう言葉は無数の水滴になり、太陽の光が当たると虹の橋になるのだ。
わたしは、生きているうちにめぐり会った人びとの呟いた言葉を拾い上げて、小説を書いているから、めぐり会った人びとはわたしの文学世界を築いてくれた恩人である。
作品は自分の力で創り出すわけではないとは、そういうことだ。
自分を文学の専門家だと思い込んでいる人たちの言葉は、ほとんど、わたしの心を打たない。
一級の人は、自分のやっていることを、自分の人生だと思い、話をするときは、自分の人生の話をする。
彼は、彼のまわりにうごめいているものをじっと見つめ、「自然」の中にひそんでいるものを自分自身の中に見つけようとする。
芸術家は独創的であらねばならない、といった言い方があるが、これは浅薄に使われやすい言葉である。
たとえば、昼間眠って、夜目ざめて仕事をするのを独創的だと思ったりする。
それはただ、珍しい習性が、なんらかの理由でつけられてしまっただけの話である。
この習性をこっけいで悲劇的だと思うのは芸術家の感性だが、独創的だと思う人は、芸術家の素材となるに適した人である。
「芸術家にはこの種の独創性は必要ではない」。
必要なのは「自然」が内包する生命である。
そこにある生命を掘り出すのが芸術家で、芸術家は生命を無から創り出すわけではない。

わたしがまだ世間に作品を発表していないころ、そして、わたしが文学についてひと言も語らないころ、わたしを「自然」から何かを掘り出すことのできる人間として扱ってくれた二、三の友人がいたが、そういう人たちは真正の芸術家だった。
つまり、彼らは、独自の作品世界というべきものを持っていた。
「自然」を映した彼らの生活そのものが芸術品だった。
彼らの人生にまつわる独特の表現の中には、それをそのままテープにとっておけば、立派な文学作品になるものがあった。
そして、わたしは今でもそれらの話を思い出して、つづり合わせて小説を書いているに過ぎない。
作家として暮らし始めると、人びとの何気ない言葉を聞く機会が少なくなったような気もしている。
小説に書いてもらいたくてする人の話や、書かれまいとして用心している人の話は、あまり面白くないのが普通である。
そういう話には、吹く風の音がない。
また見上げても、決して虹はかかっていない。もちろん、金の壺も埋まっていない。
小説家の目
いかにも小説家の目が書かせた文章です。
言いたいことを言えずに口ごもっている人の中にある真実こそが、小説の世界なのでしょう。
小説とはうまい表現だとしみじみ思います。

大河小説というのも確かにあります。
しかしもっと細やかな日常生活の断片の中にしか、真実はないように感じます。
漱石の代表作『門』の最後にまた春が来ますねという、主人公の妻の言葉があります。
それに対して、すぐにまた冬がくるよと答える夫の世界に慄きのようなものを感じたのは、隋分と以前のことです。
入試設問
この文章は、もともと大学入試のために書かれたものではありません。
しかしそこから、言葉の意味を問おうとした人たちがいました。
いくつかの設問には、その真摯な気持ちが滲んでいます。
非常に意識の高い問いばかりなので、答えるのは苦しいです。
設問をここに取り上げておきましょう。
いずれも書かせる問いばかりです。
問1「生活の中にかかる虹の橋づめに埋まっている金の壺がわたしの文学である」とはどのようなことを言っているのか、説明せよ。
問2「芸術家にはこの種の独創性は必要ではない」とはどのようなことを言っているのか、説明せよ。
問3 作者が本文中で用いる「自然」はどういうものか、芸術家の関係を踏まえ、説明せよ。
問1の「虹の橋づめ」という表現と「埋まっている金の壺」という表現は、ともに比喩です。
それを分析して別の言葉にしなさいというのが、問題の主旨ですね。
参照すべきは「わたしは、生きているうちにめぐり会った人びとの呟いた言葉を拾い上げて、小説を書いている」という言葉です。
つまり筆者は何を文学だと考えているのかが、ポイントです。
生活の中でめぐり会う、人々の何気ない言葉や態度が表現への契機になります。
その結果、想像が広がり、真意を掘り下げることができるのです。
そこからしか、本当の言葉はうまれてこないと、作家は信じています。

解答にはそのことを書けばいいのではないでしょうか。
大庭みな子にとっての文学とは、形よくつくりあげられたものではありません。
人々の日々の悲しみや喜び、言葉などに動かされ、成り立つものなのです。
命の輝きを発見し、独自の世界観からそれらを表現する力だということです。
生活から離れて文学はないという、ある意味では当たり前のことを論じた文章です。
芸術と自然の関係について、自分の言葉で書ききったエッセイだといえるのではないでしょうか。
ぜひ味わって読んでみてください。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。