茄子娘
みなさん、こんにちは。
アマチュア落語家、すい喬です。
今回は落語の話をさせてください。
ここのところ、難しい教材ばかりの記事を書いていたので、たまにはちょっとゆるい話もしたくなりました。
今回のネタは「茄子娘」です。
たまに寄席でもかかります。
得意にしていたのは先代の入船亭扇橋師匠です。
首を振りながら小さな声でボソボソと話していました。
それがなんとも寄席らしくて、気に入ってました。
それほどに長い噺ではありません。
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オチもいわゆる地口オチというので、感心するようなものでもありません。
茄子娘は寄席にぴったりの、ごくごく軽い噺です。
季節感があって、特に夏の風情に満ちています。
登場人物は和尚と茄子の精だけです。
その他には寺男と5才になった茄子の娘でしょうか。
つまりメインは17、8歳の美女と45歳の和尚さんだけなのです。
背景は蚊帳をつった庫裏の部屋。
竹林を通した風が抜けてくる爽やかな夏の夕刻でしょうか。
全てが軽い装置です。
裾が秋の七草に染め上げられた友禅の着物をきた娘が、この世のものでないところもユニークです。
茄子の精などいっても、なんのことかわかりませんね。
和尚が毎日、茄子に向かって呟いたのです。
はやく大きくなり、大きくなってわしの「さい」になれ、と。
掛詞
この「さい」という言葉が掛詞になっています。
「菜」というのはつまりおかずのこと。
茄子にむかって、はやく膳にのぼるような大きな実になりなさいといったのでしょう。
ところが茄子はそれを「妻」と聞き間違えました。
お礼に肩をもませてくださいといって、蚊帳の中にはいってきたのです。
裏山から竹林を通して吹き渡る風が、大変に心地いいのです。
なんとなくファンタジックですね。
ところが、ここで第2の装置が稼働します。
それが突然の雷です。
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落語には幾つか雷のでてくる噺があります。
最も有名なのが「宮戸川」でしょう。
登場人物、お花と半七が結ばれるきっかけになったのが、突然の雷でした。
「半ちゃん怖い、何とかして」
「こっち向いちゃいけませんよ」
などと言っている間に雷がどんどん近づいてきます。
落雷の音に驚いて、お花は半七の胸元に飛びこみます。
甘いおしろいと鬢の匂いが半七の鼻をくすぐります。
お花の着物の裾が乱れるのです。
燃え立つような緋縮緬の長襦袢から覗いた雪のような真っ白な足
木石ならぬ半七は思わず、お花の身体を自分の方に引き寄せました。
このあたりがクライマックスですかね。
しかし落語は品格を大切にする芸です。
ここですぐに夜が明けることになっています。
実はこれと全く同じシーンが、この庫裏の蚊帳の中で、和尚と茄子の精との間に繰り広げられるというワケなのです。
なんとなく幻想的で、夏の夕刻にふさわしい光景だとは思いませんか。
五戒
この噺を引き立てるためには、それなりの導入が必要になります。
普通は仏の道を目指すための修行の話から入るのです。
仏道修行で最も大切なのは戒を守るということです。
つまり「してはいけないこと」です。
通常、最も大切なのは「五戒」と呼ばれています。
ご存知ですか。
仏に使える僧侶が守るべき戒めなのです。
殺生戒(せっしょうかい)・・・生き物を殺してはいけない。
偸盗戒(ちゅうとうかい)・・・他人のものを盗んではいけない。
邪淫戒(じゃいんかい)・・・婦人に邪な心を持ってはいけない。
妄語戒(もうごかい)・・・嘘をついてはいけない。
飲酒戒(おんじゅかい)・・・酒を飲んではいけない。
どれも厳しい戒律ですね。
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この中でどれが最も難しいのか。
よく考えてみると、いずれも人間の本能にピッタリと寄り付いたものばかりです。
昔からタブーと呼ばれているものは、逆にいえば、誰もが望むものでもあるワケです。
だからこそ、それをしてはならないということになります。
この噺のストーリーからいくと、「邪淫戒」についての落語だということがよくわかりますね。
和尚は清廉潔白な独り身を通していたにも関わらず、ついに女犯の罪をおかしてしまいます。
明け方、目をさましてみると、そこに娘の姿はありません。
夢かと独り言をいいながら、自分の修行のいたらなさに愕然とします。
すぐに墨染めの衣に着替え、わらじを履き、杖をつき笠の緒をしめ、修行の旅に出るのです。
5年後
樹下石上を旅の宿とし、四国、西国、山国、雪国を経巡って雲水の旅を続けます。
しかし故郷が懐かしく、5年後、再び、戸塚の宿へ戻ってくるのです。
田畑は実っているものの、寺は荒れ果てています。
本堂の周囲をめぐって、茄子の畑があったあたりへくると、突然、おかっぱ頭でつんつるてんの少女があらわれました。
おとうさまと呼ばれ、和尚は驚いてしまいます。
旅の坊主に向かってお父様などと声をかけるとはどういうワケなのかと訊ねました。
すると、その娘は自分が茄子の子であると告げるのです。
年をきくと、5つだとか。
するとあの時の子供に違いない。
和尚は手招きをして、その子を抱きしめます。
そなたはここで待っていてくれたのかと訊けば、そうだというのです。
まさかそんなばかな話があるワケはありません。
誰に育ててもらったのかを重ねて聞きました。
すると一人で大きななったと呟くのです。
それで和尚は得心がいきました。
実はここから、地口オチになります。
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「なるほど、親はナスとも子は育つ」
随分といいかげんなオチですね。
それがこの噺の軽さを象徴しているとも言えます。
噺家は頭を下げて、楽屋に戻るのです。
この落語はいわゆる会話の部分もありますが、語りの部分もかなりあります。
こういうのを「地噺し」と呼んでいます。
なんとなく不思議なおとぎ話をきいてるような味わいもありますね。
それでいて時の流れも感じます。
落語にはこういうゆったりとした、時間の流れる噺もあるという見本でもあります。
今でも入船亭の噺家はよく演じます。
いつか寄席で聞くチャンスがあったら、ああ、あれだなと思い出してみてください。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。