【風姿花伝・年来稽古条々】芸道の本筋を世阿弥は熟知していた【年々の花】

年来稽古条々

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は高校の古典の教科書に所収されている『風姿花伝』を取り上げます。

全ての本に載っているワケではありません。

扱っていない本の方が多いです。

しかしそこには芸道の本質が活写されています。

教えるということの本質にも迫る文章です。

けっして能の稽古のためだけに向けて、書かれたものではありません。

一般論として十分に通用します。

あらゆる習い事や学問の厳しさに通じるのです。

『風姿花伝』は、能の理論書です。

その中でも今回扱うのは能の修行法と心得です。

世阿弥自身が自分の身体で体得したものだけに、説得力がありますね。

一般論などではありません。

まさに血の滲むような日々の中から、観世の家が代々続くようにと、命をかけて書いた本です。

それだけにきれいごとは綴られていないのです。

読んでいるうちに怖くなってきます。

「年来稽古条々」には、何歳の時はどのような稽古をすればいいのか、という実践法が示されています。

日本最古の演劇論、身体論とも言えます。

秘伝の形で書かれただけに、存在すら誰にも知られていませんでした。

今の時代だから読めるのです。

能の稽古の口伝が教科書に載っているという事実に、不思議な感慨を覚えます。

最初に本文を読みます。

そこからみえてくる光景はどのようなものでしょうか。

じっくりと味わってみてください。

本文

一、この芸において、おほかた、七歳をもて初めとす。

このころの能の稽古、必ず、そのもの自然とし出だすことに、得たる風体あるべし。

舞、働きの間、音曲、もしくは怒れることなどにてもあれ、ふとし出ださんかかりを、うち任せて、心のままにせさすべし。

さのみに、よきあしきとは教ふべからず。

あまりにいたく諫むれば、童は気を失ひて、能、ものくさくなりたちぬれば、やがて能はとまるなり。

十二、三

この年のころよりは、はや、やうやう声も調子にかかり、能も心づくころなれば、次第次第に物数をも教ふべし。

まづ、童形なれば、何としたるも幽玄なり。

声も立つころなり。二つのたよりあれば、わろきことは隠れ、よきことはいよいよ花めけり。

おほかた、児の申楽に、さのみに細かなる物まねなどは、せさすべからず。

当座も似合はず、能も上がらぬ相なり。

二十四、五

このころ、一期の芸能の定まる初めなり。

さるほどに、稽古の境なり。

声もすでに直り、体も定まる時分なり。

されば、この道に二つの果報あり。

声と身なりなり。

これ二つは、この時分に定まるなり。

年盛りに向かふ芸能の生ずるところなり。

さるほどに、よそ目にも、すは、上手出で来たりとて、人も目に立つるなり。

もと名人などなれども、当座の花に珍しくして、立合勝負にも、いつたん勝つときは、人も思ひ上げ、主も上手と思ひしむるなり。

これ、返す返す、主のため仇なり。

これも、まことの花にはあらず。

年の盛りと、見る人のいつたんの心の珍しき花なり。

まことの目利きは見分くべし。

このころの花こそ、初心と申すころなるを、きはめたるやうに主の思ひて、はや申楽に側みたる輪説とし、至りたる風体をすること、あさましきことなり。

たとひ、人もほめ、名人などに勝つとも、これはいつたん珍しき花なりと思ひ悟りて、いよいよ物まねをもすぐにし定め、名を得たらん人にことを細かに問ひて、稽古をいやましにすべし。

現代語訳

一、この申楽の能の芸においては、通常、七歳をもって稽古の初めとします。

この年頃の能の稽古は、必ず、本人がたくまずに演じるしぐさに、生まれつき身についた芸風があるはずなのです。

舞や所作の中、謡の中はもとより、あるいは怒り狂う演技の中などであっても、自然にやり出すような趣のある姿を、干渉せずに、自由にやらせるのがよいのです。

あまりによい、悪いと教えないほうがよいでしょう。

あまりに厳しく注意を与えると、きまって子供はやる気をなくして、能に、嫌気がさしてきてしまうので、そのまま能の進歩、上達は止まってしまいます。

十二、三歳のころからは、もう、だんだんと声も音階に合うようになり、能もわかってくるころですから、順を追って能の技術や曲目の数々も教えるのがいいです。

まず、この時期は稚児姿ですから、どんな演じ方をしても優雅で美しいものです。

声も引き立つ年頃です。

姿と声という二つの利点があるので、欠点は隠れ、長所はいっそう美しく引き立ちます。
一般的には、元服前の少年の演ずる申楽に、それほどに細かい演技などは、させないほうがいいです。

その場そのときの見た目にも似合わないし、能も上達しない結果になることが目に見えているからです。

二十四、五歳のころは、一生を貫く芸能が確立する第一歩です。

だから、稽古に専心する方向へ転ずる大切な時でもあります。

十七、八歳の変声期の声もすっかり回復し、体も大人の体に固まってきます。

この芸能の道に携わっていくで二つの恵みがあります。

声と体つきです。

この二つは、この時分に決まるものなのです。

壮年に向かっての芸能が生まれる大切な基盤の時期です。

だから、観客の目にも、「うまい役者が登場したものだ」ということで、注目されます。

競演する場合でも相手がかつての名人などであっても、その場だけの一時的な魅力のために新鮮に映ります。

競演をしても、負けることはありません。

世間の人も実力以上に高く評価し、本人も「自分は上手だ」と思い込んでしまうものなのです。

これは、本当に、当人のためにとってよいことではありません。

真実の魅力ではないからです。

年齢的に最高の時を迎えただけのことなのです

観客の一時的に感じる珍しい魅力にすぎないのです。

本当の鑑賞眼を持つ人は当然、その違いを見分けるはずです。

この時期の魅力は、未熟な初心の段階であるのに、奥義をきわめたように当人がうぬぼれて、申楽の正道を外れた勝手な言動をしてしまいがちです。

極意をきわめた気取りのある演じ方をすることは、あきれ果てたことなのです。

たとえ人も褒め、競演で名人などに勝っても、これは一時的な珍しさの魅力であるとわきまえなければいけません。

演技を確実に体得し、名人の名を得ているような人にこと細かに問うて、稽古をますます重ねるのがよいのです。

時分の花とまことの花

ここに示された内容は重いですね。

ジャニーズのタレントを見るまでもなく、若い時に人気のあった人が凋落していくのを見るのはつらいものです。

しかしそこから這い上がってくる人も中にはいます。

まことの花を得た、ほんの一握りの人たちなのです。

kareni / Pixabay

教育も芸も同じ道をたどっていくにちがいありません。

意欲や関心をどう本来の道に繋げていくのか。

先人の指導が大切なことは言うまでもありません。

世阿弥の述べたことは、真実そのものです。

じっくりと味わってみてください。

年齢を重ねていくほど、彼の言いたかった真実の深さが見えてきます。

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今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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