進路格差
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は教育格差の問題を扱います。
ある意味で救いのない、重い内容です。
この1週間で、2冊の本を読みました。
1冊は朝比奈なをさんの『進路格差 <つまずく生徒>の困難と支援に向き合う』(朝日新書)です。
どの高校に進学するかで、その先の生活がほぼ決まるという、ちょっと怖ろしい本でした。
しかし詳しい資料に基づいた内容なので、納得せざるを得ませんでしたね。
彼女の本は数年前に読んだ『ルポ 教育困難校』(朝日新書)の強烈な印象もあります。
自分自身、高校の教師を40年近くやってきた感想としては、まさにここに書かれた通りだと感じます。
家庭の経済力がそのまま教育力に反映してしまうという現実は、否定できません。
今までにさまざまな種類の高校を8校ほど経験しました。
その現実を振り返りながら読んでいると、全くその通りだとつい頷いてしまいます。
子供の進学先が、環境によってある程度決まってしまうという問題は想像以上に重いです。
異動するたびに、どの地区のどのレベルの学校かで、明らかに教育に対する親の熱意に違いがあるのかもみてきました。
学習意欲の低い生徒がなぜこれほどに存在するのか。
学ぶことの楽しさを感じることもなく、学校時代を過ごした生徒の実態も描いています。
近年、家庭における教育力は明らかに違います。
保護者会などへの参加率にも、歴然とした差があります。
行事に対する参加意識も明らかに違います。
いわゆる「教育困難校」での実態を学校関係者などを取材して実態の解明を進めているのです。
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進学した学校で進路がある程度決まってしまうという傾向は、以前よりも明らかに強まっています。
親の経済格差がなぜここまで深刻に反映してしまうのか。
その原因を分析していくと、現在の日本がおかれている位置がよくわかります。
高校からさらに専門学校、就職、教育困難大学へという経路が一直線につながっているのです。
確実に就職が可能で、国家資格がとれる専門学校と、そうでない場合との落差も激しいです。
かつてはバイパスルートなどもあり、返還義務のない奨学金システムなどもある程度機能していました。
今は、それがなくなり、金利のある完全に奨学金とは名ばかりの学資ローンが幅をきかせています。
ペアレントクラシー
もう1冊は志水宏吉氏の著書『ペアレントクラシー』(朝日新書)です。
あまり聞いたことのない表現かもしれません。
ペアレントは両親です。
クラシーは「デモクラシー」などという言葉につかわれるのと同じ意味です。
「~の支配」とでも呼べばいいのでしょうか。
わかりやすくや訳せば「親による支配」、あるいは「親の影響力がきわめて強い社会」という意味です。
どのような親の元に生まれるかによって、その後の学習、経験などの質が明らかに違うということなのです。
もっとわかりやすくいってしまえば、「親ガチャ」という表現が1番実感に近いでしょうか。
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2021年、「親ガチャ」という言葉がが流行語大賞にノミネートされました。
最初は随分とすごい表現だと思いました。
わかりやすくいえば、「親ガチャ」とは、子どもがどんな親のもとに生まれるのかは運任せだということです。
家庭環境によって人生を左右されることを、スマホゲームの「ガチャ」にたとえた言葉なのです。
この言葉は必ずしも否定的な諦めの表現として使われるだけではありません。
むしろ明るく肯定的な使い方をする時もあります。
しかしある種の苦さを持った表現であることだけは、否定できないでしょう。
経済不安
コロナの影響がじわじわと日本中に広がっています。
そこに覆いかぶさるように、ロシアのウクライナ侵攻の影響もあります。
日本では円安に加えて、物価高騰が来年にかけて続くとみられているのです。
住宅価格があがる一方、賃金は上昇する勢いに力がありません。
少子高齢化の中、社会福祉にまわす額が増加する一方です。
しかし財源はありません。
国債の発行は限度を超え、投資に回せと政府がいくら宣伝をしても、庶民にはなかなか響かないのです。
当然、子供の学費に回す費用にも限界があります。
学費だけを考えてみても、普通の暮らしをしていて捻出できる額ではありません。
塾代や習い事の費用などを重ねると、空恐ろしい数字になります。
ところが、ある一定の収入を確保できる家庭に生まれれば、ごく自然にそうした環境を享受できるのです。
周囲に、事情の分かる大人たちがいれば、日本の学歴構造なども手に取るようにわかっています。
どのコースからどこへ進むことが、もっとも有利であるのか。
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そのことをいちいち言葉にしなくても、態度が全てを物語っているのです。
親戚や、知人の持つ有意義なポテンシャリティを短時間で作り出すことはできません。
どの家に生まれるかで、子どもの人生に大きな違いが出てくることは、間違いのないところなのです。
しかし今日の社会には、身分の差というものが、表向きはありません。
そこには「見えない壁」が続いているだけなのです。
それだけに厄介な時代に入ったと言わざるを得ないでしょう。
苦学という言葉の消滅
かつては苦学という言葉がよく聞かれました。
それこそ、さまざまなアルバイトをしたりして、学業を遂げ、立身出世するというパターンです。
それを美徳として讃えたのです。
努力こそがあらゆるものを手元に引き寄せる源泉でした。
しかし現在の大学受験などをみてみれば、それがほとんどなくなっていることに気づかされます。
入試が終わると、有名大学に入学した高校の名前などの一覧が、よく週刊誌などで発表されます。
それをみると、本当に偏っているとしかいえません。
もちろん、全く聞いたことがない高校の名前が載っていることもあります。
しかしそれは本当に少ないというのが実感です。
どの高校に入ったかで、その後のルートがほぼ決まってしまっているのです。
効率のいい授業、選ばれた教師、ノウハウの全てが彼らに注入されます。
背後にある家庭も、それをバックアップします。
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もちろん、ハッパをかけて勉強しろなどと強制したりはしません。
ごく普通にあたりまえのこととして、学び、成長していくのです。
そこで繰り広げられる構図は、学力の二極化などというような言葉とは無縁なのです。
彼らは知らずに、その圏内を自然に遊泳しています。
そこで得た知識や経験は、その後の学習にも役立てられます。
こうした日々が続いたあとに、どういう人生が待っているのか。
それは勿論、誰にもわかりません。
そうしたことを意識することもなく、日常が進んでいくと考えるのが自然なのかもしれません。
2冊の本を読んで、あらためて、現実の怖さを実感しました。
ぼく自身がみてきた風景そのままだったからです。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。