死せる諸葛
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は『三国志』の話をしましょう。
お読みになったことがありますか。
小説にも映画にもコミックスにもなっています。
1番手っ取り早いのが、横山光輝の漫画でしょうかね。
なぜか、ぼくが転勤した高校の国語科には全冊揃っていました。
在籍していた間に、何度読みましたかね。
不思議な味わいの本です。
彼の著書にはこの他に『項羽と劉邦』とか『史記』などもあります。
大人買いしたくなる魅力にあふれています。
今回のテーマはそのなかでも、諸葛孔明が命を落とすときの話です。
時は234年8月、三国時代の中国が舞台です。
蜀の宰相、諸葛亮(諸葛孔明)は魏の将軍、司馬懿(司馬仲達)の軍と戦っていました。
そのさなか、孔明は五丈原の陣中で病死したのです。
54歳でした。
将軍が亡くなれば、軍の士気は一気に下がります。
部下たちは急遽、軍隊をまとめて退却しようとしました。
当然、司馬仲達は後を追いかけようとします。
しかし蜀軍が陣形を整えて、反撃する形を作り始めました。
軍師として諸葛孔明の名は、中国前途に響き渡っていました。
いい気になって追撃すれば、圧倒的な秘策が練られているかもしれません。
そこで、司馬仲達は追撃を諦めました。
このときの様子を言葉にしたのが、次のようにまとめられたのです。
死せる諸葛、生ける仲達を走らす、と。
諸葛亮はもう死んでいるのに、まだ生きている司馬仲達は怖がって逃げ出した、というものです。
それくらい諸葛孔明の采配は怖ろしかったのです。
生前の威光が死後も残っていて、人々を畏怖させることの譬えとして今も使われます。
『三国志・蜀書―諸葛亮伝』に引用された、『漢晋春秋』という書物に載っている逸話です。
本文を読んでみましょう。
書き下し文
蜀漢の丞相、亮、衆十万を悉(つく)して、又、斜谷口(やこくこう)より魏を伐たんと、渭南(いなん)に進軍す。
魏の大将軍、司馬懿(しばい)、兵を引き拒(ふせ)ぎ守る。
亮、数(たび)たび司馬懿(しばい)に戦を挑めども、懿(い)出でず。
乃ち遺(おく)るに巾幗(きんかく)婦人之服を以ってす。
亮の使者、懿の軍に至る。
懿、其の寝食及び事の煩簡(はんかん)を問ひて、戎事(じゅうじ)に及ばず。
使者曰く、「諸葛公、夙(つと)に興(お)き夜に寝ね、罰二十以上は皆、親(みずか)ら覧(み)る。噉食(たんしょく)する所は、数升(すうしょう)に至らず。」
懿、人に告げて曰く「食少く事煩し。其れ能(よ)く久しからんや」と。
亮病ひ篤(あつ)し。
大星(たいせい)有りて、赤くして芒(ぼう)あり。
亮、営中に墜(お)つ。
未だ幾(いくば)くならずして亮卒(しゅつ)す。
長史楊儀(ちょうしようぎ)、軍を整へて還る。
百姓(ひゃくせい)奔(はし)りて懿に告ぐ。
懿之を追ふ。
姜維(きょうい)、儀をして旗を反し鼓を鳴らさしめ、将(まさ)に懿に向かわんが若(ごと)くせしむ。
懿敢へて逼(せま)らず。
百姓(ひゃくせい)之を諺と為して曰く「死せる諸葛、生ける仲達を走らす。」
懿、笑ひて曰く、「吾能く生を料(はか)れども、死を料る能(あた)はず。」と。
亮、嘗て兵法を推演し、八陣図を作る。
是に至りて懿、其の営塁を案行し、嘆きて曰く、「天下の奇材也。」と。
現代語訳
蜀漢の丞相である諸葛亮は、十万の軍勢を率いて、斜谷道から出兵して魏を伐とうとし、渭水の南に軍をすすめました。
魏の大将軍である司馬懿は、兵を陣に引き、堅く守ったのです。
亮はたびたび司馬懿に戦さを挑みましたが、懿は軍を出そうとしませんでした。
そこで女性の頭巾と服を司馬懿に送りました。
これはお前は女なのかという挑発の意味です。
諸葛亮の使者が司馬懿の軍にやってきました。
司馬懿は諸葛亮の日常の寝食や仕事の忙しさを質問し、軍事のことには話が及びませんでした。
使者は、「諸葛公は早朝に起きて深夜に寝られます、二十回鞭打ち以上の罰は皆、ご自分でお決めになります。
お食事は、数升には及びません。」と答えました。
司馬懿は人にこう告げました。
「食事は少なく政務は多忙だ。今のままでは永くは持つまい」と。
果たして、諸葛亮は病気が重くなっていきました。
ある夜、大きな星が出現して、赤い尻尾を引き、諸葛亮の陣営に墜落しました。
それから、程なく諸葛亮は亡くなったのです。
長史である楊儀は、軍を整え、蜀に帰還を始めました。
人々は司馬懿にそのことを告げました。
今がその機と、司馬懿は蜀軍を追ったのです。
姜維は楊儀に命じて旗を返させ軍鼓を打ち鳴らさせ、司馬懿を迎え撃つように装わせました。
これを見て司馬懿はあえて迫ってこなかったのです。
人々はこの様子を諺にして「死んだ諸葛が、生きている仲達を敗走させた。」と言いました。
懿はこれを聞いて笑い、「私は生きている人間は推し量ることができるが、死者を量ることはできない。」と呟いたということです。
諸葛亮は兵法の演習をおこない、八陣図をこしらえました。
蜀軍の撤退後、懿は陣営のあとを視察に行き、嘆いてこういったそうです。
「ああ、彼は天下にまれな逸材であった。」と。
赤い箒星
諸葛孔明が亡くなったときにあらわれたという赤い星には、なんとなく不思議な意味合いがありそうですね。
赤壁の戦いのときには、風を吹かせることに成功しました。
気象に対する並々ならぬ知識を持っていたとも言われています。
一種の天才に近い素質を持っていたと思われます。
三国志の冒頭のほうに、劉備玄徳が彼を3度訪ねて、自分を助けてくれないかと願うシーンがあります。
「三顧の礼」としてよく知られる場面です。
彼が陣営に入ってくれなければ、劉備の人生もあそこまで大きく飛躍はしなかったでしょう。
この時、逃げた司馬懿(司馬仲達)は若い頃から聡明で、博覧強記として知られた人です。
それだけに孔明の力量をよく知っていたのでしょう。
深追いをして、敵の策略にのることだけは避けたかったに違いありません。
才気煥発な将軍だからこそ、なんといわれても孔明の怖ろしさからは逃げたかったのです。
実に興味深い話です。
現代でも、この表現はよく使われます。
常識として、知っておく価値がありますね。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。