【泣いて馬謖を切る】目的のためには私情を捨て法に従う厳しさが必要

学び

泣いて馬謖を切る

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回も『三国志』が書かれた時代の話です。

有名な言葉がありますね。

泣いて馬謖を切る、がそれです。

耳にしたことがあるはずです。

しかしあまり意味までは考えたことがなかったかもしれません。

これを機会によくその時代の様子を知っておいてください。

言葉の正確な使い方がわかるはずです。

蜀の将軍、諸葛孔明は日ごろから臣下の馬謖(ばしょく)を重用していました。

確かに彼は並外れた才能の持ち主で、軍略を論じることを好みました。

その才能を諸葛亮も評価していたのです。

しかし劉備は彼を信用しませんでした。

白帝城で臨終を迎えた際にも「馬謖は頭はいいが実行力がないため軍隊の指揮は任せてはならない」と諸葛亮に厳しく念を押したというのです。

つい自分の軍才に酔うところがあったのでしょう。

案の定、諸葛孔明の命令に従わず、策に溺れて、魏に大敗してしまいます。

そこで孔明は部下を切る決断をしました。

『蜀志』馬謖伝の故事にはその時の様子が示されています。

この言葉は、規律を保つためには、たとえ愛する者であっても、違反者は厳しく処分することのたとえによく使います。

今でもこの表現は生きているのです。

特にビジネス社会においては、ルールを守ることがもっとも大切です。

いくら有能であっても、コンプライアンス違反を認めるわけにはいきません。

士気も信用も、一気に揺らいでしまいますからね。

孔明涙を揮(ふる)いて馬謖(ばしょく)を斬るとあります。

どんな立場にあろうとも、軍律を守る厳しさがなければ、誰もついてこないことを彼はよく知っていたのです。

その時の台詞も文章になっています。

「今、四方で権力を争い、戦争が始まっている。もしも軍律を無視したら、どうして敵を討つことができよう。どうしても斬らなければならぬ。」と言ったそうです。

さぞや、つらかったでしょうね。

しばらく後、刑士が馬謖の首を階下に持ってきました。

孔明はいつまでも大声で泣いたとその時の様子が記述されています。

書き下し文

良の弟、謖(しょく)、字は幼常(ようじょう)。

荊州従事を以って先主に従い蜀に入り、緜竹(めんちく)・成都令、越嶲(えつすい)太守に除さる。

才器人に過ぎ、好んで軍計を論ず。

丞相諸葛亮、深く器異なるを加す。

先主、薨に臨みて亮に謂いて曰く「馬謖(ばしょく)の言、其の実を過ぐ、大用すべからず。君、其れを察せよ」と。

亮、猶ほ不然(しからず)と謂い、謖を以って参軍と為す。

引見する毎に談論し、昼より夜に達す。

建興六年(蜀の元号、西暦228年)、亮、出軍して祁山(きざん)に向ふ。

時に宿将魏延(ぎえん)・呉壹(ごいつ)等有り。

論者皆言はく、以為(おもえらく)宜(よろ)しく先鋒と為すべしと。

而(しか)るに亮、衆に違いて謖を抜き、大衆を統(す)べて前(すす)ましむ。

魏将、張郃(ちょうこう)在り、街亭で戦い、郃の為に破れる所となり、士卒離散す。

亮、進むに據(きょ)する所無く、軍を退きて漢中に還(かえ)る。

謖(しょく)、獄に下り物故(ぶっこ)す。

亮、為に流涕(りゅうてい)す。

良、死する時、年三十六。謖、年三十九。

現代語訳

馬良の弟の馬謖は字を幼常といいます。

荊州従事として先主に従って蜀に入り、緜竹県・成都県の令、越嶲(えつすい)郡の太守に登用されました。

人並みはずれた才能をもち、好んで軍事戦略を論じ、丞相の諸葛亮によってたいそう高い評価を受けていたのです。

先主、劉備は臨終に際して諸葛亮に向かい、「馬謖は、言葉が実質以上に先行するから、重要な仕事をさせてはいけない。君はそのことを察知しておれよ」といいました。

諸葛亮はそれでも反対の判断をし、馬謖を参軍にとりたて、いつも招いて談論を交したのです。

時に昼から夜に及ぶこともあったくらいです。

建興六年(228年)、諸葛亮は出陣して祁山に向いました。

当時経験に富んだ将軍として魏延・呉壹等がおり、意見を具申した者たちはすべて彼等を先鋒にさせるのがよいと進言しました。

諸葛亮は人々の意見に反して馬謖を抜擢して先鋒としたのです。

大軍を率いて進ませ、魏の将軍張郃と街亭で戦わせました。

しかし張郃によってうち破られ、軍兵は散り散りになってしまいます。

諸葛亮は進軍しても、拠点にする場所がなかったため、軍を撤退させて漢中に戻りました。

馬謖は投獄されて死に、諸葛亮は彼のために涙を流したと言われています。

馬良の死んだ時の年齢は三十六歳、馬謖の死は三十九歳でした。

厳格なルール

この表現は四字熟語で示す場合もあります。

そのときは「泣斬馬謖(きゅうざんばしょく)」と書きます。

諸葛孔明は馬謖の才器が気にいっていたのでしょう。

孔明自身にもそうした傾向があります。

力づくで勝利を導くというよりは、計略で敵の隙を打つという作戦が多いのです。

それだけに軍略を用いて戦さを運ぶ、俊英な馬謖の才能がまぶしくみえたに違いありません。

劉備の死後に彼を参軍(幕僚)に任命し、昼夜親しく語り合いました。

そのたびに、納得させられるだけの考えを開陳したものと思われます。

それだけに敗戦は無念でした。

それも孔明の作戦をきちんと実行したわけではなかった故のものでした。

馬謖を許してしまえば、他の者への示しがつきません。

どれほど親しく重用しているものてあっても、命令を守らずに戦った場合は、死罪というのは法です。

それを忠実に行なったのです。

しかし無念だったことでしょう。

大きな目的を達成するために、私情を挟まず法に従って、愛する者も捨て去る厳しさが、上に立つ者には必要です。

組織というものは特に幹部レベルの不祥事に対して甘い処分を下しがちです。

そこから広がる失望は瞬く間に広がっていきます。

だれも上司の指示を守らなくなっていきます。

今日の社会では、この言葉が持つ意味は大きいですね。

政治の世界でも、殊の外、深い意味があるのを実感します。

更迭の続く政界をみれば、すぐに理解できるでしょう。

経済界においてもしかり。

さらにはスポーツの世界でも同様です。

どれほど優秀な選手であっても、チームの勝利のためにならなければ、交替させる以外に方法はありません。

チームのメンバーとして選ぶ時の基準もまさにそうです。

監督の立場はいつも孤独なものです。

最終的な決断と責任が、いつもついてまわるのです。

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信頼関係が崩れたら、すべてはそこで終わりを告げるのです。

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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