文七元結(ぶんしちもっとい)
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、アマチュア落語家のすい喬です。
今年はウィズコロナの掛け声ととともに、道楽の落語の方も大変に忙しくさせてもらってといます。
1月にとある場所で「井戸の茶碗」をご披露して以来、あちこちから声がかかります。
本当にありがたいことです。
いつの間にか15年間も今のような暮らしを続けています。
毎月、必ず1度はどこかで。多い月は2度、3度とあります。
やってみるとわかりますが、落語は生ものです。
お客様との距離感やその日の体調などで、同じ話でも大きく変化します。
うまくいった日は、大変にいい気持です。
しかし無念な時もあります。
そういう日はもうやめようかと思ったりもするのです。
これはプロも同じです。

かなりメンタルをやられる仕事と言えますね。
教壇に立っているより、こちらの方が神経には悪いです。
いくら稽古をしても、やはりお客の前でやらないと、上手になりません。
よくいわれることですが、他の演者の噺を聞いていて、自分よりうまいと思ったら、かなりその人は上位にいるのです。
同じだと思っても、また相手の方が上です。
自分より下手に聞こえた時が、同じくらいのレベルだと言われます。
芸は生きています。
本当なら、寄席のようなところで毎日10日間続けて出演することで、技量が少しずつ増すのです。
たまにやってもたいしてうまくはなりません。
昨日の反省を今日に生かすという意味で、寄席の持つ意味は想像以上に大きいですね。
演目
今までに100以上の噺を稽古してきました。
長いので40分、短いので10分。
滑稽噺から人情噺、怪談噺など、いろいろと稽古しました。
寄席では「子ほめ」「時そば」「初天神」「たらちね」「替り目」「金明竹」など、わかりやすくて楽しい噺が多くでます。
いつの間にか、ぼくもこれらの噺をあちこちでやるようになりました。
最初に覚えた「金明竹」などはあまりにも長い言い立てがあるので、それを覚えるのに必死でしたね。
懐かしい思い出です。
イヤホンに意識を集中しすぎて、乗り換える駅を忘れたほどです。
噺家によっては滑稽噺を中心にやる人も多いです。
どこへいっても喜んでもらえますのでね。
しかし長くやっていると、だんだん人情噺なども演じたくなります。
我が儘なものです。
夫婦の愛情や、親子の愛情にからんだ噺には永遠の意味合いがあります。

愛情というのは、それだけ複雑な要素を孕んでいます。
愛しさが募ればつのるほど、それを裏切られた時は憎しみに変化するのです。
人間の持つ永遠の感情でしょうね。
それを落語にするのですから、うまい話し手がやると、思わずひきずりこまれてしまいます。
「子別れ」などは夫婦の縁を子供が最後にとりもつという実に愛情に満ちたいい噺です。
涙を誘いますね。
しかしお客様を泣かせようとしてはいけません。
けなげな男の子をさりげなく演じることで、自然に感情が溢れていくのです。
自分の子供との関係をイメージしながら、ぼくも何回か高座にかけた記憶があります。
文七元結
あれやこれやとつまみ食いのように稽古をした噺の中に「文七元結」があります。
これは難しい噺です。
登場人物も多く、陰影に富んでいます。
左官の長兵衛と娘、母親、妓楼「佐野槌」の女将、鼈甲問屋の文七、その店の旦那。
これらの登場人物を描き分けなければなりません。
ぼくの考えとしてはやはり、佐野槌という大店の女将の大きさが演じられなければ、この話はうまくいきません。
50両の金を長兵衛に貸します。
娘のお久が身を売る覚悟で女将の店に飛び込んできたからです。
博打に入れ込んで、首がまわらなくなった父親を救いたいとする娘の一途な心が垣間見えます。
その娘の気持ちをくみとって、金を貸すのです。
しかし長兵衛に向かって、期日までに返せなければ、この娘を店に出すよ。それまでは私の身の回りの手伝いをしてもらう。

お茶、お花や芸事なども教えてあげる。
もしお前が50両を返せない時は、店にだしても恨んでもらっちゃ困るよ。悪い病気になっても、それは
お前の甲斐性がなかったんだからね。
ここできっと長兵衛を睨みつけるのです。
一生懸命働いてすぐにもらい受けにくるからなという父親にたいして、おっかさんをぶったりしないで、大切にしてあげてねと呟く娘の優しさも身に沁みます。
ところが帰りの道で、橋から身を投げようとする手代の文七に出会うのです。
50両の金をすられて店に帰れなくなった男が死ぬというので、長兵衛は何度もとめますが、無理でした。
命より大切な金を投げつけ、その場を離れます。
ここもリアリティのあふれる場面です。
自分の娘が身を売ってこしらえてくれた大金を、見ず知らずの人に与えられるのかということです。
娘が病気になって死んだら、手をあわせてくれよといって長兵衛はその場を去るのです。
小三治と志ん朝
久しぶりに柳家小三治の「文七元結」を聴きました。
40分にもなる長い話です。
志ん朝が亡くなった後、正統な江戸落語を引き継ぐのは、この噺家以外にいないと思っていました。
江戸前のべらんめえ調は一朝一夕にできるものではありません。
小三治の前は志ん朝のばかりを聞いていました。
最高の録音技術で録られた高座だけに、息の調子までが手に取るようにわかります。
人の裏表というものを見事に描ききらないと、この噺はウソになります。
そんなことがあるワケがないよと言われたら、それでおしまいなのです。
長兵衛が橋にかかった時から、その後の鼈甲問屋での様子までが、第2幕です。
ここでの主人の大人ぶりにも感心します。
50両をすられてしまったから死なせてくれという手代文七に、なけなしの50両を投げつけてその場を去る長兵衛の気持ちがいたいほど伝わってきます。
ここには娘に不憫な思いをさせた親の愛情としかし命と引き替えにはできないという揺れる気持ちが色濃く反映されています。
演者の力が自然とでる場面です。
ここで親というものの持つ哀しみがきちんとあらわせないと、後半が生きてきません。
鼈甲問屋の主人の粋をきわめた対応もみどころです。
最後、50両を知らない人間にあげるような話をでっちあげるんじゃないよ。
また博打をしたんだろうと夫婦でケンカをしているところへ頭が登場します。
ここからがフィナーレです。

娘が籠にのって送り返されてくるのです。
鼈甲問屋の旦那が懐の大きな人間として描かれます。
最後は文七と娘お久との祝言、元結問屋の繁栄という、気持ちのいい大団円になるのです。
善人だけで描かれた世界といえば、それまでですが、ここには親と子の美しい愛情が痛いほど描かれています。
以前、歌舞伎でも菊五郎の主演で観たことがあります。
しかしぼくにはやはり落語の方が、実感にちかいものを感じました。
小三治は上手ですね。
人情噺には人間の感情の世界が強く描かれます。
この噺を聴きながら、ぼくは何度も涙が出てくるのを止めることができませんでした。
いつかこの噺がやれたらといつも思っています。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。