【世説新語】曹操が顕彰碑の謎を解けず臣下に完敗したという心爽やかな話

落語

武人政治家・曹操

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は漢文を読みましょう。

『世説新語』です。

南北朝時代、宋の劉義慶が、後漢から東晋までの名士の逸話を、徳行、言語、政事など38部門に分けてまとめたものです。

当時の知識人や豪族の生きざまをわかりやすく描き、時代思潮を浮き彫りとすることに成功した作品です。

少しも肩ひじ張らずに読めるので、大いに広まりました。

今回の主役は曹操です。

名前はご存知ですよね。

三国時代の魏を作り上げた人です。

後漢末の動乱に挙兵し、やがて漢廷における実権を握りました。

華北を統一したものの、赤壁の戦いに敗れたのは有名です。

『三国志』のハイライトシーンです。

やがて江南へ進出できないまま、三国が分立する形勢となりました。

多くの人が今でも、この時代の物語を読むのは、そこに人間の生きざまがあるからでしょう。

小説にもドラマにもゲームにもなっています。

曹操は戦いを勝利に導くのが得意でした。

さらに軍備を整えて税制も改革したのです。

太祖、武帝と呼ばれました。

魏の曹操、蜀の劉備、呉の孫権の熾烈な戦いは歴史のドラマそのものです。

その中で、最も力があったのが曹操といえるでしょう。

逸話がたくさん残されているのです。

今回はその中で、彼の性格をよく示しているものを取り上げます。

部下に先を越されたという、いささか不名誉な話です。

しかしそれを豪快に笑い飛ばし、武人らしい潔さの片鱗をみせてくれました。

どんな話なのか、読んでみましょう。

本文

魏武(ぎぶ)嘗(かつ)て曹娥(そうが)の碑の下を過ぎ、楊修従ふ。

碑の背上(はいじょう)に「黃絹(こうけん)幼婦外孫齏臼(せいきゅう)」の八字を作るを見る。

魏武脩に謂(い)ひて曰く、「解するや不(いな)や」と。

答へて曰はく「解す」と。

魏武曰く「卿未だ言ふべからず、我が之を思ふを待て」と。

行くこと三十里。

魏武乃ち曰く、「吾已(すで)に得たり」と。

脩をして別に知る所を記(しる)さしむ。

脩曰く、「黃絹とは色糸なり、字に於いて絶と為る、

幼婦とは少女なり、字に於いて妙と為る、

外孫とは女(むすめ)の子なり、字に於いて好と為る、

齏臼とは辛を受くるものなり、字に於いて辞と為る、

所謂(いわゆる)絶妙好辞なり」と。

魏武も亦た之を記すこと、脩と同じ。

乃ち嘆じて曰く、「我が才の卿に及ばざること、乃ち三十里なるを覚ゆ」と。

「注」

魏武(ぎぶ) 魏の武帝 曹操

曹娥(そうが) 後漢の孝女。

時の人がその顕彰碑を建てるにあたり、詩文に長じた邯鄲淳が碑文を書きました。

その後に有名な学者がこれを読んで感動し、碑の背面に8文字の題辞を加えたのです。

楊修(ようしゅう) 曹操の家来

齏臼(せいきゅう) 和え物をつくるときに使うすりばち

現代語訳

魏の武帝が以前曹娥を顕彰する碑の下を通ったことがありました。

その時、家臣の楊修がお供をしていたのです。

武帝は碑の裏面の上に「黃絹幼婦,外孫齏臼」と書いてあるのを見てとりました。

楊脩に「この八字の意味がそなたにはわかるか」と問いました。

楊脩は「わかります」と告げたのです。

武帝は「答えをまだいってはいかん。わたしが思案する間、待て」と言いました。

それから三十里行った時のことです。

武帝はやっと「わしにもわかった」と呟きました。

楊脩に命じて答えを書きとらせたのです。

楊修は、次のように言いました。

「黃絹とは染色した糸のことです。漢字にすると『絶』になります。

幼婦とは幼い女のことです。字にすると『妙』です。

外孫とは女の子です。漢字にすると『好』になります。

齏臼とは辛味を入れる器のことです。

漢字にすると『辞』です。

つまり『絶妙好辞』という意味です。」といったのです。

武帝も答えを書きとめておきました。

楊修と全て同じでした。

私の才能はおまえに30里も及ばないことがこれでわかったと自らの負け歩を認めたのでした。

曹操の闊達さ

曹操が家臣の楊脩を連れ、曹娥の碑の下を通ると、そこには題字が刻まれていました。

楊脩はその謎がすぐ解けたと口にします。

そこで曹操は答えを言わせないで、30里行ったころ、やっとわかったと告げたのです。

楊脩は「絶妙好辞」という意味だといい、曹操の書いた答えも同じでした。

曹操は自分の才能は家臣に30里及ばないなと言いきりました。

この話のポイントは曹操の負けっぷりの良さです。

普通なら臣下に負ければあまり愉快ではありません。

しかし曹操はあっさりと兜を脱いだのです。

こういうさっぱりとしたところがこの武将の魅力でした。

そうでなければ、何十万という兵士を率いることなどできません。

30里とは現在の約13キロです。

つまり馬にのっている間中、彼は考えていたのでしょう。

この話は漢字の成り立ちの不思議からできあがっています。

顕彰碑の裏に書かれていたという文字は、漢字のクイズのようなものです。

臣下はすぐにその意味がとれたと言い、悔しかった曹操は、答えをいうなと口止めしてから、ずっと考えたに違いありません。

30理の間、必死に考えたのです。

およそ2時間くらいはかかったと思われます。

最後の「そなたよりも、わしは30里遅れているな」という呟きにはユーモアを感じます。

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三国鼎立期の曹操の絵になる話です。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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