11年後の地震
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
2022年3月16日(水)23時過ぎのことを覚えていますか。
先月のことです。
寝入ったばかりの時刻でした。
突然、ものすごい地震に見舞われたのです。
宮城県と福島県で最大震度6強を観測する地震がありました。
震源地は福島県沖です。
かなり揺れましたね。
何度も揺り戻しがあって、これはもうダメかと思いました。
地震の規模(マグニチュード)は7.4だと推定されています。
あの東日本大震災の地震から11年目の揺れです。
その後も地震は何度もあります。
実は昨日も夜に千葉西部でかなり大きな揺れがありました。
この列島から災害が去ることはないですね。
これは冷然たる現実です。
東日本大震災があったのは2011年3月11日(金)でした。
11年前の記憶です。
地震そのものの規模もさることながら、津波による福島第一原子力発電所事故に拠る災害が驚異的でした。
今もずっと尾をひいています。
廃炉までの道のりにあとどれくらいかかるのか。
予測もつきません。
その費用もまだ計算できていないのです。
災害の質
死者の数も2万人近くになりました。
津波と火災の被害者です。
沿岸の町はほぼ壊滅状態でした。
ぼく自身、仙台の荒浜地区などを自分の目で見ました。
家がすべてなくなり、海岸線に植えられた防風林の松が何本か残っているだけの風景でした。
あの後、余震にも随分悩まされましたね。
翌日からは電車が動かなくなったり、計画停電が始まったりと目まぐるしいばかりでした。
真っ暗でヒーターもついてない電車に乗った記憶が、つよく残っています
それもこれも全てはあの地震が原因なのです。
揺れだけだったら、被害がこれほどに拡大することはなかったでしょう。
津波の怖ろしさを改めて実感しました。
1つの街が目の前で消えていくという光景を自分の目で見た子供達は、きっと一生忘れられないに違いありません。
トラウマになってしまったことと思われます。
人々は確かなものがこの世にはなにもない、ということを知りました。
それまで自分が立っていた大地すら、沈下し水の中に消えていくのです。
あれ以降、風景が以前より遠くなった気がします。
自分が見ているのはひょっとすると、幻影なのではないかとさえ思うこともあります。
あるいはいつ崩れても不思議はない不確かなものとして、そこにあると感じます。
『方丈記』を書いた鴨長明は、地震や火事の様子を実に細かく描写しています。
無常の世を生きた人にしては、この世に対する執着も並々でなかったのです。
しかし時が流れれば、記憶も次第に風化していきます。
ところが再び突然の地震です。
あの時のいやな記憶がまた浮かび上がりました。
ドキュメンタリー番組
しばらくして思い出したのは、あの後放送されたドキュメンタリー番組のことでした。
ずっと思い出す事もなかったのです。
しかしすぐ脳裡に浮かびました。
かつて教えた生徒が某テレビ局のディレクターとして活躍しています。
その当時、ドキュメンタリー部門で最高の賞を獲得しました。
それは嵐の日の気仙沼港の様子を実に温かい目でとらえたすばらしい作品でした。
何度も放送されたので、きっと見た人もいることだろうと思います。
彼女の感性の鋭さが見事に結実した傑作でした。
嵐の日になると、各地の漁師達は一斉に気仙沼めざして上陸してきます。
漁にはでられませんからね。
いつも以上に自然な表情をみせるのです。
風呂屋の番台に座る女性とは20数年のつきあいです。
俺たちの裸をずっとみてるからなと日焼けした男達は笑います。
一方、バーのママさんは、寄港した船の乗組員に次々と携帯電話をかけます。
また浜のすぐそばにある古いトラックの荷台を改良した店には、たくさんの漁師たちが、経営者の女性の顔を見たくて会いにきます。
酒をのんだり、肩こりの薬を塗ってもらったり、さながら彼らの母親そのものでもあります。
そうしたごくささいな日常を彼女の目で切り取ったこのドキュメンタリーにはたくさんの優しさがこもっていました。
その彼女が東京に転勤したという話をきいてしばらく後、津波が気仙沼を襲ったのです。
彼女は再び、取材を試みました。
カメラに写ったかつての人々に出会うため、気仙沼に赴きました。
そこで見たものは瓦礫の山と茫然と佇む人の群れだったのです。
お風呂屋さん
彼女は知り合いのお風呂屋さんを訪ねます。
ボイラーも海水につかり、再建には2000万円がかかるのだとか。
60才を遙かに過ぎた主人は廃業も考えていました。
さらに飲み屋を再開したものの、港が壊れて上陸できない漁師たちは、ママさんがいくら携帯をかけても店にはやってきません。
改装したトラックで商売をしていた女性は、流されたトラックを廃棄し、自分は仮設住宅で今後の生き方を模索せざるを得ないようでした。
あの日から全てが変わってしまったのです。
それでもなんとか生きていこうとする人々の横顔をカメラは追い続けます。
もう生きることに疲れたと述懐する女性を責めることはできません。
気仙沼の状況はとても復興していく町のそれではありませんでした。
カメラを回すのもつらかっただろうと思います。
少しだけですが、彼女の後ろ姿も映っていました。
お風呂屋さんの奥方と再会し、抱き合うシーンが印象的でした。
仕事とはいえ、長い間の取材で心が通い合っていたのでしょう。
救いがない状況だけに、事実をありのまま伝えようという気概を感じました。
これからどのような方向で取材を続けていくのか。
再び東京に戻り、また別の方面に活路を見い出すのか。
それはいずれ彼女自身が決めることです。
頑張っているかつての教え子のつくった映像が、少しでも人々の力になればと祈らずにはいられませんでした。
津波が町をこわし、そこで生計をたてていた暮らしを破壊します。
ていねいな取材が相手の心の襞に分け入っていく様子が手にとるようにわかりました。
津波が全てをかえてしまったのです。
自然災害を避けることはできません。
それでも人は再び生きていこうとするんでしょうね。
哀しい現実です。
あれから11年がたち、突然の地震に襲われ、再びいろいろと考えてしまいました。
今回も最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。