【異形の街・新宿歌舞伎町】心に残る風景は次々と消えていくけれど

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異形の街

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

ぼくは新宿の歌舞伎町で生まれました。

実に不思議な場所に住んでいたものです。

新宿区役所の前でした。

そんなところに家があったのかと言われると、自分でも不思議ですね。

家の前はお寿司屋さん、隣は大きな料亭でした。

その奥に数件、家があったのです。

裏手は都電の引き込み線でした。

今でも当時と同じ曲がり方をした道路がそのままあります。

懐かしい気持ちになります。

その奥がゴールデン街、さらに奥が花園神社です。

つい先日どうしてもその場所が再び見たくなって、でかけてきました。

なんとなく自分の足跡を探したかったからです。

以前も何度か試みたことはありますが、数年たって、どれほど変化したのかを自分の目で確かめたかったのです。

結論から言えば、ぼくの知っている街がそこにあるとは思えませんでした。

ビルの谷間は寒く、黒いコートを着た茶髪の男達が、何人も歩いていました。

彼らは仕事帰りのホストでしょう。

一目でそれと分かる恰好をしています。

何人かは女性を同伴していました。

ぼくの住んでいた場所には、何も当時の痕跡はなく、ただバーやクラブの名前の並ぶ看板だけがビルを飾り立てています。

風景にも風の匂いにも、当時を思い出させるものは何もありませんでした。

ヒーロー

子供のころのぼくにとって一番のヒーローは石井均でした。

この話は以前プロフィールの欄にも書きました。

彼は後に大阪の松竹現代劇に移ってしまい、寂しい思いをしたものです。

名前をあげても現在知っている人は多くないでしょう。

漫才の西川きよしの師匠だと言えば、分かる人がいるかもしれません。

今でも芝居が好きなのは子供の頃からずっと石井均一座を見続けていたからだと思います。

その流れで、今もアマチュアで落語を続けています。

あらゆるエンタテイメントが好きですね。

音楽にも映画にも芝居にも、心が躍ります。

俳優の伊東四朗を知らない人はいないでしょう。

彼は当時ここの若い座員でした。

当時、家にはお風呂がありませんでした。

伊勢丹から少し入ったところに鉱泉湯があったのです。

少し先には末広亭の寄席がありました。

風呂屋に行った時、石井均に声をかけてもらったのは、ぼくにとって本当に懐かしい思い出です。

毎週のように舞台で見ている俳優が目の前にいるのです。

その嬉しさは他の人には理解できないかもしれません。

やさしく声もかけてもらいました。

本当に嬉しかったですね。

ヒーローと直接会えた喜びは、タレントを追いかけるファンの心理と同じ心境かもしれません。

小学校と神社

そこから小学校まで歩きました。

途中にあった神社だけは何もかわっていません。

そこでよくおじさんが粘土の型を売っていました。

ご存知でしょうか。

いろいろなキャラクターを模した型が粘土で焼かれています。

そこに柔らかい粘土を押し入れてたたくと、1つの造形が飛び出します。

それにさまざまな色のついた粉をかけて、完成させるのです。

その粉が結構高かったですね。

金色や銀色はとくに値がはりました。

お金がない子供たちは、ただ脇に佇んでいるだけです。

時間はたっぷりとありました。

ぼくはただ見ているだけで、何を買ったということもありません。

とても充実した時間でしたね。

何が楽しかったのか。

今となってはよくわかりません。

神社はかつてと同じ場所にそのまま建っていました。

敷地の広さもかわりません。

ふっと時間が戻るのを感じました。

ほんの少し細い道を歩くと、小学校に辿り着きます。

4年生まで在学していました。

中を覗いてみようとすると、当時の門柱に昔のままの瀬戸物でできた校名が貼り付けてありました。

懐かしかったです。

ぼくはその頃校庭がアスファルトで覆ってあることを何とも思いませんでした。

しかし後に転校した時、土がそのまま顔を出していることに驚いたりもしたものです。

運動会で走ったり、遊戯をした時のことを突然思い出しました。

しばらく校庭を眺め続けてしまいました。

小泉八雲

すぐ隣の空き地には小泉八雲のレリーフがあり、前には記念公園ができていました。

彼はこの地で亡くなったのです。

今は段ボーラーが何人もベンチで寝ているだけです。

まさにこれが現実なのでしょう。

そこからさらに大久保まで歩いてみました。

ここは今やアジア人の街そのものです。

あたりまえのように韓国語が飛び交っています。

マレーシア料理や、タイ料理の店もあります。

中国の食材屋もあります。

異質な場所に変身しているのを全身で感じますね。

つい数年前、生徒が結婚式をこの近くの教会であげました。

初めて韓国式の祝祭に参列したのです。

不思議な感覚に捉われた記憶があります。

韓国物産品を売っている店にも寄ってみました。

食材、食器はもちろん古い家具までありました。

新しい場所で生きていくためには、皆が肩を寄せ合って協力していかなければならないのでしょう

横浜や長崎の中華街はそれをしてきました。

マドリッドでもロンドンでも中国人達はしたたかでした。

今度は韓国の人たちの時代なのかもしれません。

ハングルの雑誌や、漢字だけの新聞も売っていました。

ぼくが生まれた新宿は今や異形の街です。

しかしそれが現在の新宿です。

あそこにもう一度住もうとは思いません。

しかし懐かしい場所であることに変わりはないのです。

また時間ができたら訪ねてみたいです。

もうコマ劇場もなくなりました。

歌声喫茶、ともしびもありません。

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時間だけが過ぎ去っていきます。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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