芸人の魂
みなさん、こんにちは。
アマチュア落語家でブロガーのすい喬です。
話題の本を2日間ほどかけて読み終わりました。
笑福亭銀瓶の『師弟』です。
つい2ヵ月ほど前に出版されたばかりの本です。
評判も上々のようです。
芸名をみれば、すぐに笑福亭鶴瓶の弟子だとわかりますね。
高専に入って悶々としていた頃、なんとなく鶴瓶に惹かれました。
最初はタレント志願だったのです。
やがて落語の魅力に目覚め、本格的な修行を始めました。
師匠、鶴瓶とのやりとりが生々しく描かれています。
文体も整っていて読みやすく、かなりの筆力がある人です。
『銀瓶人語』というエッセイもシリーズ化されて人気を得ているとか。
ゴーストライターを使っていないことがはっきりわかります。
悩みがそのままストレートに示されているのです。
全て自分の言葉です。
特に在日の出自に悩み苦しんだことがよくわかります。
しかし師匠、鶴瓶はそんなことを気にもかけませんでした。
正式な弟子になったその日、鶴瓶はこう言います。
今日からお前は在日韓国人でも、韓国人でも日本人でもない。今日からおまえは芸人や。
その瞬間、この人の弟子になったという実感が身体中にこみあげてきたと書かれています。
芸の世界はきついです。
いまでこそ、それなりの場所が用意されてはいます。
しかしコロナで仕事がなくなったりする現実をみていると、やはり不安定な職業であることに違いはありません。
意地
武士は食わねど高楊枝という言葉があります。
芸人も同じです。
自分の苦しい実生活を芸にすることは許されません。
それを表に出すことはNGなのです。
芸人には意地が必要です。
その後の話はどうぞこの本を読んでください。
韓国語を覚えて韓国での公演も成功させました。
「焼肉ドラゴン」という芝居にも出ました。
テレビやラジオの仕事の他、芝居にも役者として参加しているのです。
桂米朝の自宅を訪ね、亡くなる直前に「一文笛」の稽古をつけてもらう夢も果たしました。
1.5メートルの距離での直々の稽古でした。
よう覚えましたな、どうぞやってくださいと声をかけてもらった時は涙が出たとあります。
その後、お酒までふるまってもらいます。
しばらくして後、米朝師匠は89歳の天寿を全うしたのです。
「百年目」という大ネタをどうやってものにしたのかという苦労話もしみじみとしていて、つい先を読みたくなります。
40~50分はかかる大きな噺なのです。
「景清」という盲目の人が登場する難しい噺で、平成29年度の文化庁芸術祭優秀賞も受賞しました。
師匠鶴瓶との2人会も好調です。
苦しい中で、どうやったら自分らしい落語ができるのかを模索し続けた様子が実に鮮明に描かれています。
タレント志望から落語家までの道を切り開いてくれたのは、師匠でした。
やめたい
途中でどうしてもやめたいと師匠鶴瓶にうちあけたことがありました。
他の諸先輩のように自然な感じで噺家の世界に溶け込めない。
鶴瓶のおかみさんともうまくいかない。
どこかよそよそしい印象を消せない。
つまり自我が強すぎるのだという反省です。
どうやってもこの世界ではいきていけないという悩みでした。
よく噺家はいいます。
落語をきいているうちに、噺家が消えてしまわなければ本当じゃない。
つまりそこには誰もいなくなるというのです。
噺だけがその空間を自然にたゆたっていく。
不思議な話ではありますが、そういうものなのかもしれません。
またそうでないときっと本当の落語ではないのでしょう。
細かいディテールにこだわる噺家もいます。
しかしうまい人は太い線で殴り書きをしたような荒っぽい芸でもそこに生きた人が見えるのです。
そうでなければ面白くありません。
楷書のままでは芸は先へ進もうとはしません。
「守破離」とは昔から芸事に関してよくいわれることです。
師匠の教えを守る段階から、殻を破り、離れ、やがて自分の芸風をつくる。
それが大切なのです。
立川談志はよく言っていました。
お客は努力していると主張するような落語を聴きにきているのではないと。
ただ面白いから聴くのです。
むしろ努力する姿を見せるなどというのは、芸人としては野暮だと主張しています。
さらっと面白い芸を見せ、聴かせて高座を降りるのが、最高の芸人だということなのでしょう。
本当の芸人なら、しらずしらずのうちに精進ができるものなのです。
好きで仕方がない
噺が好きで、稽古をしていなくてはどうしてもイヤだというぐらいにならなければ、本物にはなれません。
誰に頼まれたワケでもないのです。
そうした長い時間の後に、なんともいえない味のある芸が表出するということになるのでしょう。
俗にフラという言葉があります。
あの芸人にはフラがあるというような表現を使います。
これは生まれつき独特な味わいを持っている人をさします。
しかしこれも長い時間との戦いの後に生まれたものと考えるのが自然でしょう。
努力を感じさせないところに、本当の芸があるのです。
つまらないギャグなどをやっているだけでは長持ちはしません。
あるいは一時、ちやほちされることもあるかもしれません。
しかし時間は正直です。
全てをあぶり出してしまうものなのです。
かつて桂文楽は国立劇場で大きな失敗をし、それ以降、2度と高座に上がることはありませんでした。
登場人物の名前が突然出てこなくなったのです。
それだけの覚悟をもって努力を続け、苦しむ姿を誰にもみせないということが本当の芸人の生き方でしょう。
今日、粋とか野暮とかいう表現も死後になりつつあります。
だからこそ、こだわる人間がいると、つい快哉を叫びたくなってしまいますね。
芸はその人一代だけのものです。
厳粛な現実を知れば知るほど、怖くなります。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。