言葉は命
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
ブログを書き出してほぼ2年間がたちました。
あと数本で記事数が700に達しようとしています。
自分でもよくやってきたなと思います。
ほぼ毎日のように3000字書いてきました。
原稿用紙にすれば1日、7枚半です。
掛け算をすればすぐにわかりますね。
通算、約5000枚です。
今までよく飽きずに書き続けてきたもんです。
自分でも少しあきれちゃいます。
今はYoutube全盛の時代です。
ものすごい数のYoutuberが登場していますね。
しかし消えてしまう人も多い。
この前までやっていたのにと思う間もなく、いなくなってます。
それ以上にはやく消えるのがブロガーです。
たいていの人はみんな半年もすればやめてしまいます。
ばかばかしいと感じるのでしょうか。
大変な思いをして、やっとアドセンスの審査も通り、よしやるぞとは思ってみるものの、意外と時間がかかります。
2時間で記事が書き終わればたいしたものです。
3時間くらいで完全な原稿になってそのままアップできるくらいになれば1人前でしょう。
写真を入れたり、吹き出しを入れたり、フォントを変えてラインを引いたり。
やることは幾らでもあります。
しかし思ったように読者がきてくれるワケではありません。
雀の涙
あれほどに期待したアドセンスの収益も雀の涙です。
これ以上に効率の悪い仕事はないかもしれません。
大切な時間を数時間も使って、ほとんど何も報われないのです。
金銭的にみればの話ですけど。
ブログの書き方なんていう記事を読んでいると、実に景気のいいことが書いてありますね。
ぼくの実感としてはほとんど嘘です。
ああでも書かなければ、その人のまとめた「ノート」とかいうハウツー本を購入してくれる人はいないんでしょう。
書店で関連の本を立ち読みするだけでわかるような内容ばかりだと想像します。
無駄なお金を使って、結局得るものはないということにもなりかねません。
Youtuberだって事情は同じです。
手間をかけてさてどれくらいの収益になるのか。
そんなことを考えているくらいなら、やめた方がいいです。
ショックが大きい分、あとがつらいです。
もちんうまくいく人もいるでしょう。
あらかじめ知名度があったり、インフルエンサーと呼ばれている人達は別格です。
自分とは無縁だと思ったほうが神経にもいいでしょうね。
しかしあえていえば、ぼくは映像よりも言葉にこだわります。
ブログの楽しみは最終的に言葉と繋がり続けられることにあるのではないでしょうか。
700本の記事を書いた今、以前の自分とは明らかに違っています。
前なら考えたこともないテーマを自分のものにすることができました。
例えば「人権」に関する評論を読むなどという経験は今までにありませんでした。
ぼくが遠ざけていた分野だったのです。
言葉にして残したものは、身体の中にこびりついています。
以前より視野が広がりました。
間違いありません。
言葉の選び方も早くなりました。
衰弱する言葉
言葉は力です。
時代の持つ潜在的な力を示す一つの指標ともいえます。
そうした観点から見た時、現在人々が使っている言葉は明らかに衰弱しています。
単純な軽い言葉が表通りを我が物顔で闊歩しているのです。
SNSの普及やコミックの影響もきっと背景にはあるのでしょう。
特にメールと呼ばれる通信手段はその性格上、より短く手軽な表現で相手に意志を伝えようとします。
その極端な例が絵文字に象徴されているのかもしれません。
文が短く的確であることは決して悪いことではありません。
しかし鍛えられた言葉を背後に持たず、ただすぐ相手に伝わる表現ばかりを多用していると、考える能力を次第に弱めてしまいます。
日常使う言葉そのものから奥行きがなくなっていくとしたら、何と寂しいことでしょう。
マンガは絵で多くの情報を伝えようとします。
逆に言えば、それ以外の表現部分は極端に省略されています。
当然言葉の比重は軽いものになってしまいがちです。
言葉は思考を鍛えます。
あるいはその逆も成り立つでしょう。
つまり美しい表現や論理的な言語はそれぞれ背後にすぐれた思考の場を持たなければ、発生不能なのです。
感受性も言葉によって鍛えられます。
一度表現したことがらは新たな認識となって、自分に戻ってきます。
だからこそ、書くという行為は貴重な経験でもあるわけです。
考えるということ
実際に文章を書いてみて、自分はこんなことを考えていたのかと愕然とすることが何度もありました。
しかしそれが新しい体験そのものなのです。
かつて日本人はたくさんの言葉を持っていました。
あるいはそれを鍛えるための場が社会の中にありました。
不見識な表現は大人達によって常にチェックされていたのです。
漢文や古文の知識、あるいは和歌などの教養がそれらを背後から支えていました。
ちょっとした言葉の端々にそうした表現が見られたのです。
しかし現代はどうでしょう。
男言葉と女言葉の垣根は殆どなくなってしまいました。
むしろ女性が男性的な話し方を好んでする傾向すらあります。
合理性を好む現代の傾向がこれに拍車をかけているのでしょうか。
英語を代表とする西洋の言語には男女別の表現はまずみられません。
しかし日本語にはそれが数多くあるのです。
これは善し悪しの問題ではありません。
文化の差なのです。
言葉の持つ美しさを知っているのと知らないのとでは、そこに大変な違いがあります。
古典の中に出てくる和歌に通じているだけで、同じ花を見ても感じ方は自ずと変わるでしょう。
あるいは漢文や詩も大切です。
そうした非日常的な言葉はぼく達を内側から活性化させ、鍛えてくれるのです。
これはコミュニケーションを超えた、知性のレベルの話です。
相手に通じる言葉だけだったならば、なんと味気ない社会になってしまうことか。
詩句を知り、言葉の重みを知るだけで、人生は豊かになります。
そこには長い時間をかけて培われてきた日本人の感性が脈打っているからです。
ぼく達は日常の中で、古代の人々や中世の人たちと通奏低音を響かせ合うことができるのです。
たとえば和泉式部の代表的な歌に次のようなものがあります。
もの思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂(たま)かとぞみる
この歌を知っているだけで、蛍が人間の魂、それも人を恋する時の当惑している心の様子を表現していることがわかるでしょう。
ただ蛍を見てきれいだと思う気持ちも大切です。
しかしそこにもう一つ複雑な感情の襞を持つことは決して無駄ではないはずです。
このように感性を鍛えていくことで、言葉は幾層にも豊かな表情をみせてくれるのです。
生きることは常に寂しく孤独なものです。
しかしそこに味わい深い言葉の森を持つことで、わずかな希望の光を人生に見いだすこともまた可能なのです。
ぼくは今までブログをやってきてよかったとしみじみ思っています。
これからも書き続けます。
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きっと新しい読者がまたやってきてくれると信じているからです。
これからもよろしくお願いしますね。
今回も最後までおつきあいいただきありがとうございました。