【手の変幻・清岡卓行】ミロのヴィーナスの両腕に秘められた永遠の謎

消えた両腕

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は高校2年生で習う評論「手の変幻」について考えます。

別名が「ミロのヴィーナス」です。

こっちのタイトルの方が有名かもしれません。

筆者の名前がちょっと読みにくいです。

清岡卓行(きよおかたかゆき)です。

1970年、『アカシヤの大連』で芥川賞を受賞しました。

この人の本質は作家よりもむしろ詩人だろうと思います。

その著作集の中で最もよく知られたのが『手の変幻』です。 

ミロのヴィーナスはギリシャ神話における女神アフロディーテの像と考えられています。

高さは203cm。

材質は大理石。

発見された時は碑文が刻まれた台座にありましたが、ルーヴル美術館に持ち込まれた際に紛失しています。

これほどに有名な彫像はありませんね。

知らないという人はまさかいないでしょう。

そのミロのヴィーナスの両腕はどうなっているのだろうかというのがこの評論の骨子です。

といってミステリーでも探検ものでもありません。

腕が2本ともないということが、どれほどこの彫像を豊かにしているかという、不思議な文章です。

全篇、逆説で構成されているのです。

あまり評論に親しんでいない生徒は、最初読み終わってもキョトンとしています。

腕があるからいいのであって、なぜないのにすばらしいと呟くのか。

その真意がわからないのです。

それはそうでしょう。

近代の考え方は五体満足を標準としています。

欠けるということはそれだけで、マイナスなのです。

しかしそこに欠落していることへの想像力という考え方を入れると、ぐっと内容が変化してきます。

突然、化学反応を起こすのです。

そのあたりの描写をじっくりと読んでみましょう。

本文(一部)

ミロのヴィーナスを眺めながら、彼女がこんなにも魅惑的であるためには、両腕を失っていなければならなかったのだと、僕はふと不思議な思いにとらわれたことがある。

つまり、そこには、美術作品の運命という制作者のあずかり知らぬ何ものかも、微妙な協力をしているように思われてならなかったのである。

パロス産の大理石でできている彼女は、十九世紀の初め頃、メロス島でそこの農民により思いがけなく発掘され、フランス人に買い取られて、パリのルーヴル美術館に運ばれたといわれている。

その時、彼女はその両腕を、故郷であるギリシャの海か陸のどこか、いわば生臭い秘密の場所にうまく忘れてきたのであった。

いや、もっと的確に言うならば、彼女はその両腕を、自分の美しさのために、無意識的に隠してきたのであった。

Free-Photos / Pixabay

よりよく国境を渡っていくために、そしてまた、よりよく時代を超えていくために。

このことは、僕には、特殊から普遍への巧まざる跳躍であるようにも思われるし、また、部分的な具象の放棄による、ある全体性への偶然の肉薄であるようにも思われる。

僕はここで逆説を弄しようとしているのではない。

これは僕の実感なのだ。

ミロのヴィーナスは、言うまでもなく、高雅と豊満の驚くべき合致を示しているところの、いわば美というものの一つの典型であり、その顔にしろ、その胸から腹にかけてのうねりにしろ、あるいはその背中の広がりにしろ、どこを見つめていても、ほとんど飽きさせることのない均整の魔がそこにはたたえられている。

しかも、それらに比較して、ふと気づくならば、失われた両腕は、ある捉え難い神秘的な雰囲気、いわば生命の多様な可能性の夢を深々とたたえている。

geralt / Pixabay

つまりそこでは、大理石でできた二本の美しい腕が失われた代わりに、存在すべき無数の美しい腕への暗示という、不思議に心象的な表現が思いがけなくもたらされたのである。

それは、確かに半ばは偶然の生み出したものだろうが、なんという微妙な全体性への羽ばたきであることだろうか。

その雰囲気に一度でも引きずり込まれたことがある人間は、そこに具体的な二本の腕が復活することを、ひそかに恐れるにちがいない。

たとえ、それがどんなにみごとな二本の腕であるとしても。したがって、僕にとっては、ミロのヴィーナスの失われた両腕の復元案というものが、全て興ざめたもの、滑稽でグロテスクなものに思われてしかたがない。

ハンディがハンディでなくなる瞬間

「彼女がこんなにも魅惑的であるためには、両腕を失っていなければならなかった。」という表現の意味がこの文章の全てです。

普通ならば両手を失っていることは大変なハンディです。

マイナス要因そのものでしょう。

それなのに、魅惑的であるというのはすごい矛盾です。

実は発見された時にリンゴを持った左手が付いていたという説もあります。

フランス兵が地元トルコ人を説得して譲り受けたという説やフランス兵とトルコ人が激しく争って、そのために両腕を失ったという説もあります。

いずれにしてももう腕はありません。

結果として、よりよく国境を渡り、時代を超えていったのです。

では両腕を失ったことは何を意味しているのでしょうか。

筆者は「特殊から普遍への巧まざる跳躍」と書いています。

ここが1番難しいですね。

腕があることで当然のことながら、動きが制約されます。

どこへ向かっているのかを人は知るのです。

リンゴを持っている左手を連想してください。

今のルーブル美術館に展示されているミロのヴィーナスにはたしてなり得たのかどうか。

腕がなくなったことで、どんな風にでも自由に動くことのできる肉体を彼女は得たのです。

詩人の感性

この逆説がわかりますか。

ここが清岡卓行の最も言いたかったことです。

これはおそらく彼の詩人的な感性が言わせた言葉でしょう。

普通の評論家ならばここまで書き込むことはありません。

彼の目には自由に動く両方の腕が見えたのです。

普遍性をさらに願う彫刻にはトルソーと呼ばれる上半身だけの彫刻もあります。

これには首もありません。

そこまでいくと、想像力はまた別次元だったのでしょう。

当然のことながら腕があれば目の前に具体的な美しさがあるのは誰でもわかることです。

しかし両腕が失われてしまったことで想像できるすべてに共通する美が生まれました。

絶妙のバランスを保った永遠の輝きをそこに表したのです。

これはあくまでも偶然です。

生命の可能性といってもいいかもしれません。

詩人の目はその微妙な一線を読み取ったにちがいありません。

では腕の復元案を考えるということはどういう意味を持つのでしょう。

興ざめで、滑稽でグロテスクだと筆者は言っています。

両腕がない状態から、ある状態への変化は全く別のものを生み出してしまうのではないかというのです。

geralt / Pixabay

わかりやすく言えば多様な可能性をはらんだ美しさを捨ててしまうということです。

両腕があることによる不自由さとでも言えばいいかもしれません。

「おびただしい夢をはらんでいる無」を失うことになるのです。

では片腕だったらどうなのか。

いろいろと考えてみると、美意識というものがどれほど複雑なものか理解できるのではないでしょうか。

両腕がないことは、本来ならば世界との関係を失うことになります。

しかしミロのヴィーナスの場合は、両腕がないことによって、多くの人々にあらゆる美に対する夢を与えたのです。

これはもしかしたら奇跡かもしれません。

ルーブルに飾られた本物のミロのヴィーナスを1度は自分の目でみてください。

ここに示された内容がなるほどと納得できるはずです。

『手の変幻』は今でも手に入れることができます。

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最後までおつきあいいただきありがとうございました。

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