【宮沢賢治・永訣の朝】妹トシの死の光景【おらおらでしとりえぐも】

民話の故郷

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、ブロガーのすい喬です。

今回は宮沢賢治について書きます。

これほどに人々の心に深く根をはった作家、詩人はいないでしょうね。

童話は今も読み継がれ、彼の生きざまは小説や舞台などでも数多く取り上げられています。

『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』『ポラーノの広場』『グスコーブドリの伝記』。

どれか1冊くらいは必ず手にとった記憶があると思います。

誰もが知っている不思議な存在の人です。

特別に難しい言葉を使ったワケでもありません。

子供にも大人にもわかるような表現で独自の世界観を作りあげたのです。

高校ではいくつかの詩を取り上げました。

1番よくやったのはなんといっても『永訣の朝』です。

ご存知でしょうか。

妹トシが亡くなる日の様子を描いたものです。

詩集「春と修羅」に収められています。

冒頭の1部だけをとりあげてみましょう。

Photo by leoncillo sabino

「あめゆじゆとてちてけんじや」という言葉の繰り返しが独特の雰囲気を作っています。

「雨雪をとってきてください」という意味です。

そう言われて、表に飛びだしたものの、みぞれが降る空は陰惨な色をしています。

死ぬときになって呟く妹の言葉に深く感応する賢治の姿が目に見えるようです。

永訣の朝

  永訣の朝

   けふのうちに
   とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
   みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
      (あめゆじゆとてちてけんじや)

   うすあかくいつそう陰惨(いんざん)な雲から
   みぞれはびちよびちよふつてくる
      (あめゆじゆとてちてけんじや)

   青い蓴菜(じゆんさい)のもやうのついた
   これらふたつのかけた陶椀(たうわん)に
   おまへがたべるあめゆきをとらうとして
   わたくしはまがつたてつぽうだまのやうに
   このくらいみぞれのなかに飛びだした
      (あめゆじゆとてちてけんじや)

後半に出てくる「Ora Orade Shitori egumo」という言葉は私はもう一人であちら側の世界へ行きますという表現です。

ぼくの好きなのは「この雪はどこをえらばうにもあんまりどこもまつしろなのだ」

「あんなおそろしいみだれたそらからこのうつくしい雪がきたのだ」という部分です。

いつも1時間かけてゆっくりと授業をしました。

彼の一生を説明した後で、この詩を読むと、生徒は静かに聞いていましたね。

本当に素晴らしい詩だと思います。

以前に書いた文章がありましたので、ここに載せさせてください。

読んでいただければ幸いです。

実りの季節

花巻は実りの季節を迎えていました。

稲の穂が一面黄金色に輝いて、吹く風に頭をたれています。

北上川にそって旅をしていると、宮沢賢治の世界が流域の風景と強く響きあい、重なり合っているのを感じます。

遠くに早池峰山系の山々、広々と続く平野、そしてやさしく吹き渡る風。

民話の故郷は同時に一人の詩人を生み出す風土でもありました。

宮沢賢治が生まれたのは明治29年。

生前は一部の人々に知られるだけの農村詩人でした。

盛岡高等農林学校時代の彼は特待生にもなった優秀な生徒で、つねに級長をつとめていたといいます。

同人雑誌に短歌を寄稿したり、短編を書いたりする一方で、農業に対する研究にも人一倍力をいれていました。

賢治の背後には東北の苛酷な自然に生きる農民たちがいたのです。

毎年のように続く冷害、水害、旱魃。

彼の脳裡から農村の疲れ切った姿が消え去ることはありませんでした。

そのうえ、大正12年に最愛の妹トシを亡くしたことは賢治の一生に大きな影を落としました。

彼女は兄の詩や短歌を誰よりも深く愛し、理解していたのです。

臨終にあたってトシは力なくこういいました。

うまれでくるたて、こんどはこたにわりやのこどばかりでくるしまなあよにうまれてくる。

おらおらでしとりえぐも。

もう苦しみたくない、先に一人でいきます。

病床でじっと兄の目をみつめながらつぶやく妹に、賢治のしてやれることは何もなかったのです。

katja / Pixabay

大正13年に出版された詩集『春と修羅』の中には彼の複雑な内面が描き出されています。

四月の気層のひかりの底を唾(つばき)し

はぎしりゆききする

おれはひとりの修羅なのだ

春と修羅

「修羅」という言葉ほど、賢治のおかれていた立場を明らかにするものはありません。

修羅とは醜い争いや果てしのない闘い、激しい感情のあらわれなどのたとえです。

人が生きていくことは、けっして容易いことではありません。

父と喧嘩してまで彼は法華経の信仰に命をかけました。

しかしともに最後まで祈ることを忘れなかった妹は既にこの世の人ではなくなっていました。

賢治は心底寂しかったのです。

とし子とし子

野原へ来れば

また風の中に立てば

きっとおまへをおもひだす

大正15年、6年間続けた農学校の教師をやめた彼は、自ら畑作りを始めるかたわら、「羅須地人協会」をつくります。

農民の生活の向上を願って、農具の改良や肥料の設計を行い、農閑期には近くの子供たちに自作の童話を読んできかせました。

この協会の建物は現在復元されて、花巻農業高校の傍らに移築されています。

秋の抜けるような空にはえて、どっしりと量感のある造りでした。

玄関横には当時の彼の筆跡をまねて、

下ノ畑ニ居リマス 賢治

と白墨で書かれた黒板が打ち付けてありました。

じっと見ていると、今にも賢治自身がつっかけでもはいて出てきそうな予感がします。

彼は終生、岩手の地にイーハトーヴォ(理想郷)をみようとしました。

しかし夢はつねに挫折をともなうものです。

死後に発見された詩「雨ニモマケズ」の中には賢治のたどり着いた心境があふれています。

慾ハナク、決シテイカラズ、イツモシズカニワラッテイル

高村光太郎の揮毫になるその詩碑を見ているうち、「ゆっくり休んでんじゃい」と最後に声をかけたという母親の気持がわかるような気がしました。

昭和8年、宮沢賢治は愛する故郷の土に帰りました。

37年の短い生涯でした。

こういう詩人もいたのだということを忘れたくはありません。

作家井上ひさしはかつて「イーハトーヴォの劇列車」という芝居を書きました。

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誰もが思い残しキップを持ったままこの世を去っていくという情景が今も頭の隅をよぎります。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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