ひとつの幸福
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、ブロガーのすい喬です。
今回は立原道造の詩について少しだけ書かせてください。
彼の名前を知っている人がどれくらいいるでしょうか。
高校の授業で取り上げられることもあります。
しかし名前も聞いたことがないという方が大半かもしれません。
ただし合唱をやっている人たちは別です。
![](https://suikyoblog.com/wp-content/uploads/2019/09/本_1568790909-1024x497.jpg)
彼の書いた詩に木下牧子さんが曲をつけて発表したのは10年ほど前のこと。
混声合唱のための小品集の中の一曲でした。
やがて教科書に掲載され、各地の演奏会で歌われるようになりました。
聞いたことのある人も多いのではないでしょうか。
美しいメロディの曲です。
今では女声、男声だけの合唱でも広く歌われています。
ご紹介しましょう。
夢見たみものは 夢見たものは ひとつの幸福 ねがつたものは ひとつの愛 山なみのあちらにも しづかな村がある 明るい日曜日の 青い空がある 日傘をさした 田舎の娘らが 着かざつて 唄をうたつてゐる 大きなまるい輪をかいて 田舎の娘らが 踊りををどつてゐる 告げて うたつてゐるのは 青い翼の一羽の 小鳥 低い枝で うたつてゐる 夢見たものは ひとつの愛 ねがつたものは ひとつの幸福 それらはすべてここに ある と 『優しき歌』より
信濃への旅
若い頃にぼくの書いた文章がありました。
ここに掲載させてください。
今と違い、新幹線で行くような旅ではありませんでした。
それだけに風のかおりを感じました。
木の葉にあたる光がまぶしかったです。
———————————
夏の盛りに信濃追分を旅しました。
碓氷峠の急勾配をあえぎながら、上った汽車は軽井沢の駅に着くと、そこで多くの若者を吐き出します。
やがて浅間山がその姿をあらわしました。
中軽井沢を出たあたりから、車窓には可憐な野の花が咲き乱れていました。
立原道造が第2のふるさととして愛したのは追分です。
その年の夏も穏やかな表情を見せていました。
信濃追分は江戸時代に本陣をはじめとして、数十件の旅籠が軒を並べ、賑わいを見せていた宿場町です。
北国街道と中山道の分か去れに立って、真っ白な花ざかりの蕎麦畑などの彼方に眺めやっていると、いかにもおだやかで、親しみ深く、毎日見慣れている私の裡にまでそこはかとない旅情を生ぜしめる。
![](https://suikyoblog.com/wp-content/uploads/2019/10/止揚_1570690022-1024x670.jpg)
この地を心底愛した堀辰雄は、その魅力をこう書いています。
彼の先輩にあたる作家です。
『風立ちぬ』という小説でよく知られています。
立原道造が師と仰ぐ堀辰雄の招きで、はじめてこの地を訪れたのは、昭和9年、20歳の時でした。
信州の風は肌に心地よいです。
24年の短い生涯
木々の間を渡ってくる風には、草の香りもたち混じっています。
夢はいつもかへつて行った
山の麓のさびしい村に
水引草に風が立ち
草ひばりのうたひやまない
しづまりかへつた午下がりの林道を
立原道造はわずか24年の短い生涯の間に、2冊の詩集を残しました。
![](https://suikyoblog.com/wp-content/uploads/2020/01/undraw_Camping_y4an-1024x611.png)
その詩のほとんどが油屋という旅館で書かれたものだといいます。
昭和12年、脇本陣だったというこの宿は火災にあいました。
この時も逗留していた道造が、土地の鳶職に助けられたという話は今も語り伝えられています。
再建された油屋は、国道18号線をはずれたところに、取り残されたように建っていました。
晩年、この宿で胸の病を治していた彼は、気分のいい日、よく近くまで散策に出ました。
諏訪神社や泉洞寺、あるいは芭蕉の碑のある浅間神社。
このあたりには今でも旧い追分の趣きが残っています。
吹きとばす石も浅間の野分かな
芭蕉の碑です。
![](https://suikyoblog.com/wp-content/uploads/2019/07/54e5d4454f5aae14ea898675c6203f78083edbe35755744977287b_640_幸せ.jpg)
しかし野の草を分けて吹く風は道造の風景ではありません。
彼にはやはり夏から秋にかけての追分がよく似合うのです。
道造はまたこの地で、恋愛も経験しています。
彼の詩にはこの恋が強く影を投げかけているのです。
雲、風、草の香り
どこか甘くそれでいてやるせない彼のソネットにしらずしらず、私たちは引き込まれてしまいます。
立原は詩人である一方、別荘をつくらせれば日本一と折り紙をつけられた建築家でもありました。
設計の才能を持つ道造が、詩作において14行詩(ソネット)という形式を確立したのも当然のことだったのかもしれません。
廃墟になった時のことまでを意識して設計図をひいていたという話です。
自分自身の肉体の崩壊を感じていたのでしょうか。
昭和13年9月からとたんに生き急ぐように旅を始めました。
9月初旬、療養先の追分から東京に戻った道造は、同月15日、盛岡へと旅立ちます。
ほぼ1ヶ月滞在後、再び帰京。
11月には長崎へと向かいました。
しかし東北の旅の疲れがたたり、長崎の友人宅で発熱。
数日間病臥ののち、帰京し、病院生活が始まります。
立原の手は生きる力のない手でした。
彼は見舞いに訪れる友人に自分の手をみせては、「ぼく、こんなになっちゃいましたよ。ほらこれ見てください」と言っては痩せた腕を出してみせたといいます。
昭和14年3月、短い生涯が閉じられました。
彼が死んだ時、詩人三好達治は1編の詩をささげました。
それには人が詩人として生きるためには、聡明に清純に、そして早く死ななければならないとあります。
追分の道を歩きながら、石仏や、馬頭観音をあちこちで見かけました。
![](https://suikyoblog.com/wp-content/uploads/2019/09/雲_1569570066-1024x468.jpg)
高原の太陽がやさしく、木々の間から洩れていたのをよく覚えています。
『夢みたものは』の世界は立原の理想とする静かな高原の風景です。
亡くなる数年前から勤務先の女性と交際を続けていました。
詩を書き上げた道造は、彼女の献身的な看病にも関わらず早逝してしまいます。
彼は静かな午後の山道を1人歩きながら、風と光を身体に感じるのが好きでした。
楽しく草原で歌ったり踊ったりしている娘たちの姿に心癒されたのでしょう。
そこにある幸福の形こそが、彼の願った幸せそのものだったのです。
静かで美しい曲です。
チャンスがあったら、是非1度聞いてみてください。
最後までおつきあいいただきありがとうございました。