智恵子抄の存在
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、ブロガーのすい喬です。
秋になりました。
萩の花がきれいに咲いています。
この季節になると、人は詩人になりますね。
日本人に愛されている詩集の1つに『智恵子抄』があるのは、皆さんよく御存知ですね。
高村光太郎の代表作です。
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彼は1883年、彫刻家高村光雲の長男として生まれました。
日本を代表する詩人、彫刻家です。
教科書にも数多く作品が掲載されています。
『智恵子抄』と『道程』は日本文学史上、大切な作品です。
もし智恵子が存在しなかったら、彼は詩人になれなかったかもしれません。
それだけ彼女は光太郎を透明にした人だともいえます。
智恵子がそばにいるだけで、なんのわだかまりもなく、自分を表現できたのでしょう。
おそらく唯一の光源だったに違いありません。
そこから光があたると、素の自分が映し出される。
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そういう女性に出会えた類まれな人なのです。
幸せな人です。
滅多にそういう出会いはあるものではありません。
「レモン哀歌」という詩を何度も読んだのは隋分と昔のことです。
国語の評論で知りました。
こういうふうにして人は出会い結ばれるのだという感慨を抱いたことがあります。
ご紹介しましょう。
レモン哀歌
レモン哀歌 そんなにもあなたはレモンを待つてゐた かなしく白くあかるい死の床で わたしの手からとつた一つのレモンを あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ トパアズいろの香気が立つ その数滴の天のものなるレモンの汁は ぱつとあなたの意識を正常にした あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ わたしの手を握るあなたの力の健康さよ あなたの咽喉に嵐はあるが かういふ命の瀬戸ぎはに 智恵子はもとの智恵子となり 生涯の愛を一瞬にかたむけた それからひと時 昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして あなたの機関はそれなり止まつた 写真の前に挿した桜の花かげに すずしく光るレモンを今日も置かう (高村光太郎・詩集「智恵子抄」より)
智恵子は1929年に実家が破産したことがきっかけとなり、統合失調症を患いました。
その後、結核により52歳でこの世を去っています。
光太郎を照らし続け疲れ果ててしまったのかもしれません。
故郷訪問
以前詩人の故郷を訪ねてみようと考えたことがあります。
その時に書いた文章をここにご紹介させてもらえたらと思いました。
ご一読いただければ幸いです。
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東北本線を北にのぼっていくと、白河、郡山を経て二本松に着きます。
光太郎の妻、智恵子の生まれた故郷です。
冬でした。
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プラットホームにはうっすらと雪がつもり、風が冷たかったです。
光太郎は東京下谷の生まれで、東北に縁のある人間ではありません。
しかしその彼を後に北の地へ導いたのは智恵子でした。
あれが阿多多羅山
あの光るのが阿武隈川
郊外の霞ケ城址にのぼると、どっしりとした石に刻まれた詩碑がたっていました。
あたりは雪に覆われた白銀の世界です。
北面を望むと安達太良山、その反対側に二本松市内。
山々は雪でその稜線を飾っていました。
阿武隈川の流れも心なしか緩やかで、弱い太陽の反射を受けています。
それにしてもこの有名な山はなんと穏やかな表情をしていることでしょうか。
幾重にも重なった山の襞の中に、多くのいのちが潜んでいるかのようです。
高村光太郎が初めて女流画家、長沼智恵子に出会ったのは明治44年、29歳の時でした。
雑誌『青鞜』に表紙絵を描いていた彼女は、既に女流画家としての道を歩き始めていたのです。
光太郎は智恵子を得て、はじめて一人の詩人になりました。
をんなが付属品をだんだん棄てると、どうしてこんなにきれいになるのか
年で洗われたあなたのからだは
無辺際を飛ぶ天の金属
光太郎は愛する人を手に入れて、強くなったのです。
彼女のために何かをしてあげることが同時に自分の人生を豊かにしていきます。
内面的に最も充実した生活を、彼はこの時期に心ゆくまで味わうことができました。
彫刻、詩、翻訳、そして愛の生活。
光太郎には他の何も必要がなかったのです。
我が愛する詩人の伝記
詩人室生犀星は『我が愛する詩人の伝記』の中で、二人の愛情生活を見事に描き出しています。
夏の暑い夜半に光太郎は裸になって、おなじ裸の智恵子がかれの背中に乗って、お馬どうどう、ほら行けどうどうと、アトリエの板の間をぐるぐる廻って歩いた。
愛情と性戯がかくも幸福な一夜を彼らに与えていた。
詩人の内面に一人の女性が与えた影響ははかりがたいものがあります。
それは『智恵子抄』の詩のどれにも強く感じられます。
城址の広場にたったまま、智恵子があれほどに願った「本当の空」を見上げてみました。
なるほど冬の二本松は空が高いです。
どこまでも青くすんで透明な色調を保っています。
冷たい風に身をまかせてしまうと、むしろ爽快な気分にさえなりました。
雪をかぶった木々の背後からは、時折聞きなれない鳥の甲高い声が響いてきます。
智恵子が生まれた家を訪ねようとしました。
しかしその家はすでに人手に渡り、代がかわっていました。
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昔の造り酒屋だったらしい旧家の趣がわずかに残っています。
陽が暮れかかり、北風が冷たかったです。
昭和13年、智恵子が亡くなってからの光太郎には、冷たい冬しか残されていませんでした。
彼女の死と時を同じくして、制作中だった団十郎の首は九分通りできて、ひび割れてしまったといいます。
詩人は後年、十和田湖畔に乙女像をたてました。
「裸婦でもいいだろうか」と訊ねた彼の内部には、智恵子への追慕の想いだけが熱くみなぎっていたものと思われます。
「智恵子抄」は現在青空文庫で閲覧可能です。
秋の1日、ゆっくりと詩集を読むのもいいと思います。
詩人の魂はきっと日常に疲れたこころを癒してくれるに違いありません。
ことばの持つゆらぎの心地よさを存分に味わってください。
最後までお読みいただきありがとうございました。