権力への道
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
古文を学んでいて楽しいのは、そこに中世の景色が見えてくるからです。
けっして遠い世界の話ではありません。
特に『大鏡』に代表される歴史物語は、現在の政争と少しも変わりません。
権力の持つ不思議な魅力にとらわれた人たちが繰り広げる絵巻そのものです。
昔は特に出自が何よりも大切でした。
どの血族に繋がっているのかで、将来の地位がほぼ決まってしまったのです。
逆にいえば、血を利用することで、這い上がることもできたのです。
現代でも似たような国はあちこちにあります。
今や世襲制に近くなった国会議員のありさまをみていると、それを支えている国民の姿も垣間見えてきます。
今回の話のキーパーソンは、女院・詮子(せんし)です。
兼家の娘にして道隆の子です。
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道長の姉にあたります。
円融天皇の女御として一条天皇を産みました。
他の女御に男の子ができなかったので、詮子詮子の生んだ子が天皇になりました。
国母になったのです。
出家して女院と呼ばれました。
藤原兼家には3人の男の子がいます。
長男が道隆、次が道兼、その次にあたるのが道長です。
その間に詮子が入ります。
清少納言が仕えた中宮定子は道隆の娘です。
帥殿と呼ばれた伊周の姉にあたります。
一方も紫式部が仕えた中宮彰子は道長の娘です。
複雑な人間関係に加えて、権力闘争が行われるのです。
本来なら男子の出生順に天皇の後見人である摂政関白になるのが筋道です。
しかし道隆、道兼はあいついで亡くなってしまいます。
そのあたりの様子を説明した記事を、リンクを貼っておきます。
時間があったら読んでみてください。
ついに道長の時代の幕開けとなりました。
道隆という大黒柱を失った、息子の伊周の焦りが目にみえるようです。
本文
女院は、入道殿を取り分き奉らせ給ひて、いみじう思ひ申させ給へりしかば、帥殿は、疎々しくもてなさせ給へりけり。
帝、皇后宮をねんごろに時めかさせ給ふゆかりに、帥殿は明け暮れ御前に候はせ給ひて、入道殿をばさらにも申さず、女院をもよからず、ことに触れて申させ給ふを、おのづから心得やせさせ給ひけむ、いと本意なきことに思し召しける、理なりな。
入道殿の世をしらせ給はむことを、帝、いみじうしぶらせ給ひけり。
皇后宮、父大臣おはしまさで、世の中をひき変はらせ給はむことを、いと心苦しう思し召して、粟田殿にも、とみにやは宣旨下させ給ひし。
されど、女院の道理のままの御事を思し召し、また帥殿をばよからず思ひ聞こえさせ給うければ、入道殿の御事を、いみじうしぶらせ給ひけれど、
「いかでかくは思し召し仰せらるるぞ。大臣越えられたることだに、いといとほしく侍りしに、父大臣のあながちにし侍りしことなれば、いなびさせ給はずなりにしこそ侍れ。
粟田の大臣にはせさせ給ひて、これにしも侍らざらむは、いとほしさよりも、御ためなむ、いと便なく、世の人も言ひなし侍らむ。」
など、いみじう奉せさせ給ひければ、むつかしうや思し召しけむ、のちには渡らせ給はざりけり。
されば、上の御局に上らせ給ひて、
「こなたへ。」
とは申させ給はで、我、夜の御殿に入らせ給ひて、泣く泣く申させ給ふ。
その日は、入道殿は上の御局に候はせ給ふ。
いと久しく出でさせ給はねば、御胸つぶれさせ給ひけるほどに、とばかりありて、戸を押し開けて出でさせ給ひける。
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御顔は赤み濡れつやめかせ給ひながら、御口はこころよく笑ませ給ひて、
「あはや、宣旨下りぬ。」
とこそ申させ給ひけれ。
いささかのことだに、この世ならず侍るなれば、いはむや、かばかりの御ありさまは、人の、ともかくも思し置かむによらせ給ふべきにもあらねども、いかでかは院をおろかに思ひ申させ給はまし。
その中にも、道理すぎてこそは報じ奉り仕うまつらせ給ひしか。
御骨をさへこそは懸けさせ給へりしか。
現代語訳
女院は、入道殿を特別にお扱い申しあげなさって、たいそう愛し申しあげていらっしゃいました。
それで、帥殿はあまり親しみを感じていないようでした。
帝が、定子様を心からご寵愛なさる関係から、帥殿はいつも帝の御前に伺候しては、入道殿(道長)は申すまでもなく、女院をもよくないように、何かにつけて申しあげなさいます。
女院もそのことには自然とお気づきになっていらしたのでしょう。
たいそう不本意なこととお思いになられたのは、もっともでございます。
入道殿が高い位にのぼることを、帝はお渋りなさいました。
皇后宮が、父大臣(道隆)はいらっしゃらないで、世の関白の中の情勢が中宮(定子)にとって一変してしまいはしないかということを、帝はたいそう気の毒にお思いになられたのです。
粟田殿(道兼)にも、すぐに関白の宣旨をお下しになられたでしょうか。
いや、そうはなりませんでした。
しかし、女院が兄から弟へという順序で関白職が移るべきだという道理にかなったことをお考えになり、また帥殿を好ましくなく思い申しあげていらっしゃったことは知っています。
帝は入道殿を関白になさることを、たいそうお渋りなさいましたけれど、
「どうしてそのようにお考えになりおっしゃられるのですか。帥殿が入道殿より先に大臣になられたことだけでも、たいそう気の毒でございましたのに。
それは帥殿の父大臣が無理やりになさいましたことですから、帝もお断りになれないでそうなってしまったのです。
粟田の大臣(道兼)には関白の宣旨をお下しになって、入道殿にだけございませんのは、道長様にとって気の毒です。
帝のためにも不都合なふうに、世の人もことさら言い立てるでございましょう。」
などと、並ひととおりでなく申し上げなさったのです。
帝はわずらわしくお思いになったのでしょう。
その後は女院の所においでにならなくなりました。
そこで、女院はご自分の控えの御座所にお上りになって、帝に「こちらへ。」
と申しあげなさらないで、ご自身、帝の寝所にお入りになりまして、泣く泣く入道殿の件を申しあげなさるのです。
その日は、入道殿は上の御局に伺候していらっしゃいました。
女院がたいそう長い間お出になりませんので、入道殿は胸をどきどきさせていらっしゃいます。
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しばらくして、女院が戸を押し開けて出ていらっしゃいました。
お顔は赤らみ涙に濡れてつやつやと光っていらっしゃりながらも、お口元は気持ちよくほほ笑みなさって、
「宣旨が下りましたよ。」と申しあげなさったのです。
少しばかりのことでさえも、現世における言動の結果ではなく前世に作られた原因による結果なのです。
まして、これほどの重大なご事態は、女院が、どのようにも思い定めていらっしゃるようなことによってお決まりになるはずのものでもありません。
入道殿はどうして姉の女院をおろそかに思い申しあげなさるでしょうか。
入道殿が女院のご恩に報いようとしたその中でも、道理を越えてご恩に報い申しあげお仕えなさいました。
女院がお亡くなり火葬にふされた折、女院のご遺骨までご自分の首にお懸けになったということです。
天皇の心苦しさ
一条天皇はなぜ道長の関白就任を渋ったのでしょうか。
その心情を考えてみるのは大いに意味がありますね。
帝は愛する定子の一族に気を遣っているのです。
そこへ道長を支持する詮子は、畳みかけるように要求を発してきます。
一条天皇は苦しかったでしょうね。
しかし4歳年下の弟道長を可愛がり、兄道隆・同道兼没後の関白として彼を推しました。
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にあたる甥伊周を圧迫し、ついに兄一家を没落に追い込んだのです。
さらには一条天皇には定子というが后にいたにも関わらず、道長の娘の彰子を入内させようとしました。
こうしてみると、悪女にみえますが、信仰心も篤い女性だったのです。
失脚した源高明の末娘明子を引き取って道長に娶わせたり、定子が難産で若くして崩御した際も、残された第二皇女の媄子内親王を養育したりもしています。
最後に姉の遺骨を首に下げたという記述があります。
これは創作のようです。
史実では骨をかけたのは詮子の甥の兼隆(道兼の子)であると言われています。
歴史は何を物語るのでしょうか。
誠に興味深いところです。
今回も最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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