反論の可能性
みなさん、こんにちは。
小論文添削歴20年の元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は結論への道のりを考えます。
最後まで文章を論理的に進めていくのは大変なことです。
課題文を読んだら、最初に反対意見をいくつも考えてみましょう。
可能なかぎり、目の前に並べてみるのです。
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その中で最も強力なのを選びます。
結論は1つだけ。
たくさんあってはいけません。
なんとか絞り込めれば最高です。
ちょっとここで一休み。
ゆっくりしましょう。
良質の結論ならば、それだけで高く評価されます。
しかし反対意見をいくら考えたとしても、それに対して再び反論されるという可能性はないのでしょうか。
当然あります。
ディベートをする時にポイントとなるのは相手の論理の根幹です。
そこにある矛盾を徹底的につくのが完璧な作戦なのです。
しかし相手は当然理論武装をして、防ごうと躍起になります。
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その前にさらに強力な砦をつくることも考えられます。
それを力づくで破壊するというのは容易なことではありません。
相手も必死です。
反論を考えてきます。
冷静になって考えてみましょう。
この繰り返しはいつまで続くのでしょうか。
終わらないディベート
結論。
永遠に続くのです。
しかしそれをしていたのでは議論は終わりません。
この流れをどう考えたらいいのでしょうか。
ディベートとはどこまでも果てしなく続く性質を持っています。
どのようなプロセスを重ねても、双方が完全に納得する結論にまで達することはありません。
ここで断言しておきます。
採点者は結論の収束まで期待していないのです。
ここまで問題を突き詰めたという実績だけをみれば十分なのです。
考えてもみてください。
現代の複雑なテーマが、それほど簡単に結論にまで達するワケがありません。
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何一つとして解決しない問題ばかりです。
環境、人権、災害、歴史認識、言語。
ディベートはどちらが勝ったのかを最終的に決めます。
ある種のゲーム的要素を持っています。
しかし小論文には勝ち負けの発想はありません。
どこまで問題の本質に迫れたのかということが評価のポイントなのです。
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となると、最終的には妥協点を見い出すという発想が出てきてもいいのではないでしょうか。
ここまで考えた。
確かにこの論点には反対だ。
しかし確かに筆者の視点にも一考に値する内容がある。
それはこことここである。
といったような相手側との中間地点に着地するという裏ワザもとれないことはないのです。
修正に応じる姿勢
言葉は悪いですが、高度に政治的な妥協です。
条件のこの部分を1部修正することで、筆者の論点を取り入れることも可能になりうるとします。
わかりやすくいえば、その問題の裏側にある原因をじっくりと考えることです。
その上に立って対立していた問題からなんとか外へ抜け出ようとすること。
見方によっては妥協ともとれる方法論を考えることです。
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採点者はどこまでいっても終わらない論議を求めているのではありません。
小論文はあくまでも入学のための試験なのです。
受験生の資質がどの程度のものなのかさえ判別できれば、本来の意味は達成したということになります。
当然あなたの論理も示せたことになります。
採点者との間にウィンウィンの関係が成立したことになるのです。
何度も反論を重ねたところで、解決への道筋が完全に描ききれるものではありません。
どちらの側にも正当性があるのです。
それをガムシャラに自分の方にばかり引っ張ってこようというのには無理があります。
具体的なわかりやすいテーマでここで考えてみればよくわかります。
よく問題になるスマホの持ち込みに関しての問題です。
授業中におけるスマホの利用についてはどうでしょうか。
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教える側のスタンスは次の通りです。
スマホを持たせると授業に集中せず、ひどい場合はゲームをして遊んでいる学生も出てくる。
講義中のスマホ使用は絶対に許されない。
しかしすぐ考えられる学生の側からの反論としては次のようなものが考えられます。
講義の内容に疑問がある場合、すぐにその場で調べられて便利である。
反論の反論
教える側からは…。
しかし便利だからといって、ネット検索を使うにしても、その正確さがどこまで保証されているのか不明である。
学生は…。
自分から文献にあたる姿勢を持つことが勉学の精度を上げることになるのではないか。
さらにその反論として、文献そのものに多くの考えがあり、1つにまとまっているワケではない。
むしろその場で代表的な論点を知るだけでも意味がある。
ゲームばかりしている学生がメインなのではない。
学ぶ意思を強く持った学生もたくさん存在する。
どちらもなかなか自分の論理を取り下げようとしないということもあり得ます。
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こういう時はもっと広く高いところから、見ることです。
ネットがなぜ生まれ、今日どれだけの功罪を持っているのか。
長所と短所はどこにあるのか。
その利点は何か。
問題点はどのような形で克服が可能なのか。
両者の意見の中に共通する要素はないのか。
ありとあらゆる方向から探ることが大切です。
その中から、今後、講義の場へ持ち込むとしたらこれだけの条件を備えれば可能だとする内容が浮かび上がってくるでしょう。
つまり条件闘争の形に持ち込むことで、相互の不満を抑えていくことが可能になるのです。
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そういう視点があれば、お互いに突っ張って相手を論破しなくてもいいワケです。
むしろその方がよりいい形での論理になり得るのではないでしょうか。
大切なのは結論ではありません。
どこまで考えたのかという思考のプロセスをみせることです。
むしろそのパフォーマンスの場と考えた方が、より小論文に対して自然な形をとれるのではないでしょうか。
もう1度、原点にかえって考えてみてください。
どのようなテーマであっても、思考の方法は同じです。
ただし内容は難しくなる一方です。
日常の勉強を怠らないこと。
最後までお読みいただきありがとうございました。